FC2ブログ

印西市吉高三角作(よしたかみすみさく)古墳群(その1)

京成スカイアクセス印旛日本医大駅の東およそ2.5km、印旛沼の北西側の台地上で今の時期観光スポットとしても有名な吉高の大桜(今年は他の桜と同じく開花が早くてもう花は散ってしまい、コロナ禍のため桜まつりも無料バスの運行も中止になりました)、民家の並ぶ谷津を挟んだ背後の台地は印旛沼を見下ろせる場所で多数の古墳が築かれました。
yositakaohzakura.jpg
(観光客で賑やかなこの画像は数年前のものです)

経緯は不明ですが該当エリアの古墳群は吉高羽黒・三角作・若作・刈又・立田台などと細分された為に一部混同も有る印象なのですが(ちば情報マップだと7基が羽黒3号墳表記です)、ここでは統合されたとする表題古墳群部分を、大桜の西側も含めたコの字形の台地上を吉高古墳群として一つに纏められた資料を基に照らし合わせてみたいと思います。
yositakabunpuzu.jpg
いつものやっつけ地図で分布域を南から見ていて、赤が確認出来たマウンド、青が発掘で確認された埋没古墳です。

国道464号線(北千葉道路)から県道12号線に折れて大桜に向かい(桜まつり開催時は車両規制が有り、通常でも交差点が大渋滞するので駅からタクシーに乗るとまず南の県道65号線をぐるっと迂回されます)、大桜手前の陶器屋さんの看板の出てる丁字路を右折して坂を下り切り、三叉路の右の道を上がって北上すると立田台1号墳が見えて来ます。
yositakatatutadaikai1se.jpg
現状一辺10m程の方墳に見えますが、直径6m、高さ約0.5mの円墳とされます。墳頂の奥側が土盛りされ(もしくは木の根?)、農地は掘り下げられてるのでもっと高く見えます。隣接する立田台第二遺跡の報告書では軸と言う言葉も出てきますが・・・?

北東より見てます。左手の畑で墳丘に並んで立田台第二遺跡SM01号墳が見つかってます。1号墳周りは発掘されてないので19m×14mの長方形墳と考えられてますが、南向きの前方後円墳としてくっついていた可能性も考えられてます。
yositakatatutadaikai1ne.jpg
径28mの2号墳はおよそ200m離れたスカイアクセスの南側で消滅した立田台第一遺跡内で、同じく消滅してます。

墳頂には印旛沼(現在は埋め立てられて印旛捷水路)の在る南東を向いて勢至菩薩像と石祠が祀られてます。
yositakatatutadaikai1top.jpg
先程の三叉路の真ん中を進んでも、後方の道に出て結局合流します。

SM01号墳からは2ヶ所の主体部が見つかり、南側の石棺が市立印旛歴史民俗資料館内に移設・展示されてます(撮影は要申請)。北側の石棺は抜き取られてました。
yositakatatutadaiSM01sekkan.jpg
L1.82m×W0.8m×H0.8mの雲母片麻岩を組み合わせた石棺の中から6体分の人骨が見つかり、展示場ではイメージとして一部を再現しています。天井石は省略されてますが南端の一枚だけ(この向きだと奥側)追葬の為に粘土で隙間を埋められてませんでした。

側面に解説パネルが貼られてます。副葬品はあまり見つからず、勾玉のほか玉類や須恵器片などが出土し7世紀後半の築造と推定されてます。
yositakatatutadaiSM01kaisetu.jpg

SM01号墳の南の三叉路近くには径20m級のSM02・03号墳が見つかり多くの円筒埴輪や須恵器・土師器が出土したほか、径10m級のSM04号墳、一辺7.4mの方墳のSM05号墳も検出されてます。

120m程北東へ進むと右手に直径約20m、高さ約1.5mの円墳が見えて来ます。規模からして、刈又5号墳と思われますが、手前に在るはずの径約30m、高さ約2.5mの同6号墳は見当たりませんでした。
yositaka21sw.jpg

北西より見てます。ここまでの墳丘は吉高古墳群の第6支群に分けられ、ここは21、立田台1号墳には23の番号が振られてます。
yositaka21nw.jpg

墳頂にはやはり印旛沼を向いて大日様が祀られてます。
yositaka21top.jpg

続きます。
スポンサーサイト



栄町龍角寺古墳群(その1) 浅間山古墳

龍角寺古墳群はJR成田線下総松崎駅の北方およそ1.5mnの台地上周辺に分布する大規模な古墳群で、6世紀前半に造営が始まった後、首長が変わり勢力が公津原古墳群から移って来て多数の古墳が築かれたと想定されてます。

風土記の丘内の房総風土記の丘資料館(長期休館中)玄関前から竜角寺へと続く白鳳道と言う古道を北に向かって進むと県道18号線(成田安食バイパス)のバス停に出られますが県道に出ずに、左手の坂を下って県道を潜ります。
hakuhodosetumei.jpg

時期によっては県道下のトンネルを抜けると倒竹で進むのも困難な場合も有るみたいですが、100mちょっと坂を上がると後円部の東側に出ます。これが浅間山古墳と呼ばれる龍角寺111号墳です。
ryukakuji111re.jpg

ここに解説板が設置されてます。常時見られる浅間山古墳の解説はここだけです。
ryukakuji111kaisetu1.jpg

後円部の裾部に沿って左手に進みくびれ部南東面より墳丘を真横から見上げてます。群中最大規模で、7世紀前半に周辺では最後に築かれた前方後円墳と推定されてます。
ryukakuji111se.jpg
南西向きで墳長約78m、高さ現状8mの前方後円墳で、左が前方部で右が後円部なのですが、日が当たってる石室前庭部がほぼ重なって後円部が良く見えてません。周溝も含めた全長は90m以上とされます。

先程の階段を上がった後円部墳頂には浅間社が祀られてます。手前の踊り場の少し下が元の後円部の高さです。
ryukakuji111rtop.jpg
こことは別に後円部北側裾部には八坂神社の祠が祀られています。

後円部墳頂より前方部を見てます。
ryukakuji111rtof.jpg

近年は町によって墳丘上の草刈りが行われ墳丘上が見易くなりました。
ryukakuji111rtof2.jpg

くびれ部より見た後円部も以前はこんな感じでした。
ryukakuji111ftor.jpg

草刈りされて後円部南側を周って前方部上へと行く獣道もサッパリしました。
ryukakuji111ftor2.jpg
浅間社が建つ際に1m程土盛りされて高くなっていて、大生古墳群の鹿見塚古墳みたいにちょこんと後円部上段が飛び出てる印象です。

180度振り返って草刈りされた前方部を見てます。緩い勾配で先端が高くなっていて、先端の高さは後円部の元の高さとほぼ同じです。
ryukakuji111kubiretof.jpg

前方部先端付近より後円部を見てます。
ryukakuji111ftorn.jpg

休館中は見られませんが、2018年に風土記の丘内の房総風土記の丘資料館1FにL6.7m×W2.3m×H2mの石室の原寸大レプリカが造られました。
ryukakuji111sekisitumokei.jpg
オリジナルは筑波産絹雲母片岩(筑波石)の板石組横穴式石室ですが、レプリカは天井石・側壁・奥室などは強化プラスチック製で、中に入れる前室床面はプリント再現です。

奥室内に造り付けられ、盗掘の痕跡が窺えないのに中は空っぽだった石棺も再現されてます。
ryukakuji111sekkan.jpg
こことは別に前室に関東では大変珍しい漆塗りの木棺が据えられていた事が判明しています。

再現されたのはほぼこの図の範囲で、羨道の一部が省略されてます。前室・奥室には左壁に大きい覗き窓が設けられ履物を脱いで石室内に入らなくても見学出来ます。
ryukakuji111sekisitutenkaizu.jpg
石室内や周囲からは金銅製冠飾をはじめとする装飾金具の他、刀類・飾り弓・鉄製小札・馬具・鉄鏃・鉄釘などが出土し、千葉県の有形文化財に指定されました。

すぐ横には色の付いて周溝などの見易い実測図・断面図のパネルや、
ryukakuji111jissokuzu.jpg

解説パネルも設置されてます。
ryukakuji111kaisetu2.jpg

東松山市野本古墳群(後編)

野本将軍塚古墳から南側の県道345号線を東におよそ1km進んで、ちょうど信号と信号の中間辺りの地蔵尊が在る横の道を斜めに左折し、250m程進んで坂を上がり切るぐらいの右手に5号墳が在ります。
nomoto5w.jpg
直径15mくらい?、高さ2mほど?の円墳ですが、公式には規模不詳となってます。

ちょっと北側より見てます。ここだけ厳重に鉄のフェンスで仕切られていて、通りすがりのご近所の方の話では学術的調査だろうが立ち入りが許可されないのでは?との事でした。
nomoto5nw.jpg
ここの西北西およそ250mの畑中の木立は半壊の4号墳が残るとされてますが接近できず、遠目ではどこから見てもマウンドが残ってる様にも見えませんでした。

北へ進んで突き当りを東へおよそ200m進むと、道路で削られてる7号墳が右手に見えて来ます。直径約20.5m、高さ約1.8mの円墳です。
nomoto7nw.jpg
削られてる道路側以外を見ても墳丘はかなり小さくなってるみたいで、径15mも無い様にしか見えません。

通り過ぎて北東側より見てます。右手奥のゴミの奥に径16.5mの6号墳が在りますが、訪問時は全然見えませんでした。
nomoto7ne.jpg

7号墳の東に20mほど離れている8号墳を南より見てます。手前の藪も道路よりは高いのですが以前は建物が建ってたらしく、恐らく墳丘は植樹されてる奥側のみの現状長軸約14m、短軸約8m、高さ2m弱の角が無い長方形になってます。
nomoto8se.jpg

北東より見てます。墳丘上の樹木が取り払われて土が流れ易くなってるのか削られてる面もなだらかに続いてしまっていて、北側の民家も土留めしてるみたいです。
nomoto8n.jpg

東松山市野本古墳群(前編) 附野本館

野本古墳群は柏崎古墳群の西近くから、県道408号線手前の野本将軍塚古墳までのエリアに分布する古墳群で、前方後円墳1基、円墳7基から成ります。

野本1号墳とも呼ばれる野本将軍塚古墳を西より見てます。4世紀後半に築かれた現状墳長115m、高さ15mの南向きの前方後円墳で、中央の鳥居がくびれ部で、その右が前方部、左が後円部です。当時築かれた埼玉で最大の古墳で、市の史跡に指定されてます。
nomotoshogunw.jpg
前方部は先端が一部削平されて民家が建つなどしていて、全長はまだ調査されていませんが、県内で二子山古墳、真名板高山古墳に続く規模で、奈良県のメスリ山古墳と相似形の墳丘と想定されてます。

西側くびれ部に参道が続き鳥居が建ってます。造出しも周溝も有りません。
nomotoshogunkubirebu.jpg

2段築成の前方部より後円部を見てます。前方部には日露戦争戦没者の忠魂碑が建ち、周囲のレーダー探査が行われてますが、埋葬施設らしき反応は有りませんでした。
nomotoshogunftor.jpg
以前は前方部上部が5m程削られてるとする説が有りましたが、墳形の調査の後は否定されてます。

少し進んでくびれ部より3段築成の後円部を見上げてます。後円部とは比高差約7m有ります。
nomotoshogunkubiretor.jpg

後円部で180度振り返って前方部を見下ろしてます。途中の平面は後円部中段の上面テラス面の一部が残ったモノと判ってます。
nomotoshogunrtof.jpg

再度振り返って直径約25mの後円部墳頂に鎮座する利仁神社です。藤原利仁鎮守府将軍を祀るために延長元年(923年)に創建されたと伝わります。
nomotoshogunrtop.jpg
ボーリング調査により中心のやや南、地下約1.2mで礫槨が見つかってるほか、レーダー探査で更にその下に主軸線の向きで長さ約8m、幅約3.5mで断面U字形の竪穴式埋葬施設と思われる反応が出ています。

後円部を北西より見てます。現在の墳端はオリジナルではなく、裾部が急斜面で下ってる高さが下段部分でそこからテラス面が張り出して前方部と繋がり、現在の周回路にかけて墳丘が拡がっていたものが長い年月で徐々に削られたと想定されてます。
nomotoshogunrnw.jpg
なので墳丘北端ももっと伸び、現状不明と言う事になります。

その裾部に解説板が設置されてます。
nomotoshogunkaisetu.jpg

そこから北を向いた正面の無量寿寺は中世の野本館の跡です。
nomotoyakata.jpg
少し昔は境内背後が竹林になっていて空堀と土塁の一部が見えていたそうですが、竹が伐採され藪化し、殆ど見えなくなってしまってます。でも調査で往時には二重目の堀が追加で構えられてた事が判明してます。

参道から墳丘との間の道路へ出る手前に標柱が設置されてます。
nomotoyakatahyochu.jpg

山門前に設置されてる野本館についての解説板です。
nomotoyakatakaisetu.jpg
野本氏は利仁将軍の警護をしていた片田基親の末裔とされてます。

印西市大仏古墳(?)

国道16号線大島田交差点から南におよそ1.6km南下した、沼南体育館そばの名称の無い信号の交差点を東に折れて、600m程進むと右手にみよしろ大仏が見えて来ます。

大仏と言っても個人の勧請による子供サイズの石仏で、寛政2年(1790年)に建立されました。近年周りの樹木が伐採され、台座を新設されて人の丈よりは高くなりました。
miyosirodaibutu.jpg
「みよしろ」とは漢字にすると宮後となり、かつて円墳2基が在った神明社(この西およそ2km)の背後に位置するという意味です。

横に説明の彫られた石碑が立ってます。ほぼほぼ家系についての話で地域の歴史的な事には触れられてません・・・。
miyosirodaibutusetumei.jpg

大仏のすぐ横には石材らしきものも見える小さなマウンドが並んでますが、これは墳丘ではなく横に立ってた巨木の切り株の名残です。
miyosirodaibutuyokonotuka.jpg
画像右端木の杭に沿ってかつては旧道が真っ直ぐ奥に伸びていました。

ちば情報マップではその旧道に沿って南へ110m程進んだ場所に直径7mの円墳として大仏古墳がポイントされています。

ここがそのポイントの場所です。自分の曖昧な記憶では奥の東京ガスの施設は以前ブロック塀で、その下から手前の数本の樹木の木立にかけて僅かに盛り上がっている状態だったハズなのですが、今は奥のゴミ捨て場の左がやや盛り上がってるかどうかという状況です。それとも白い鉄杭で囲まれた部分が墳丘址なのでしょうか・・・?
daibutukohunato.jpg
左手のフェンスは大仏横から旧道が続いていた址です。

周囲には民家も少なく通りがかりのご高齢の方に伺っても、東京ガスの施設も含め塚状の場所は記憶に無いそうですが、すぐ南東の三叉路の交差点横には道標が恐らく反対側の旧道沿いから移設されて並んでいて、更に右側にもかつては何か祀られていた様です。
daibutukohunsekitou.jpg
古い航空写真では旧道の西側が雑木林になっていた様で、このガス施設自体が古墳址なのかもしれません・・・。
プロフィール

あんけん

Author:あんけん
多趣味で統一性のないアラフィフです。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
アクセスカウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR