神崎町馬場古墳
馬場古墳はJR成田線下総神崎駅の西南西およそ2km、成田市との境も近い線路北側の台地上に在る奈良~平安時代の小松宿低地遺跡の南西端に在り、同遺跡内には小松2~5号墳が分布しています。篠塚神社古墳とも呼ばれます。
北西より見てます。現在墳丘周囲の樹木は枝が落とされ、幹も切られて視界が開けてるのですが、隣接する民家が丸見えになってしまったので、整備前の画像です。

神社は1677年の創建で、現在の社殿は大正中期の火事の後の再建です。
西より見てます。直径約20m、高さ約2.5mの円墳で、社殿の為に西~北面が大きく削られてます。横穴式石室を持つなら通常手前の木の下かやや右手の南面だと思うのですが痕跡も有りません。恐らく削られた中心部に石棺が有ったのだと思います。

裏にお住まいの方にお聞きしましたが、遺物等は何も聞いた事が無いそうです。
小松2~5号墳は集落内の私有地内などで、見られる範囲では1基も確認出来ませんでした。内3基は石棺が出てて石枕や立花、滑石製鏡や勾玉などが出土しており、5~6世紀の築造と推定されてます。
北西より見てます。現在墳丘周囲の樹木は枝が落とされ、幹も切られて視界が開けてるのですが、隣接する民家が丸見えになってしまったので、整備前の画像です。

神社は1677年の創建で、現在の社殿は大正中期の火事の後の再建です。
西より見てます。直径約20m、高さ約2.5mの円墳で、社殿の為に西~北面が大きく削られてます。横穴式石室を持つなら通常手前の木の下かやや右手の南面だと思うのですが痕跡も有りません。恐らく削られた中心部に石棺が有ったのだと思います。

裏にお住まいの方にお聞きしましたが、遺物等は何も聞いた事が無いそうです。
小松2~5号墳は集落内の私有地内などで、見られる範囲では1基も確認出来ませんでした。内3基は石棺が出てて石枕や立花、滑石製鏡や勾玉などが出土しており、5~6世紀の築造と推定されてます。
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綿貫観音山古墳ちょっとだけ再訪
予定が有るので立ち寄るつもりは無かったのですが、普賢寺から県道13号線に出るのに綿貫観音山古墳の横を通ったら野焼きのすぐ後で真っ黒けだったので急遽撮影しました。

地元の方には毎年恒例の行事だとは思いますが、ネット上にもこの姿はあまり紹介されてはいないみたいなので・・・。
昨年講演会で墳丘整備における木の伐採と、その後の草刈りは人件費も時間もかかると聞いてたので、古墳公園管理センターにいらした方にお伺いしたら、野焼きはものの30分程度で済むそうです。

時間の余裕は無かったのですが、石室の電気を点けてると教えて頂いたのでちょこっと上がってみました。

新たに開口部の格子戸には消灯時用にか(?)石室の写真が掲示されてます。左壁側の石が若干動いてる気もします。
前回は暗くて下の方しか写ってませんでしたが、今回は中の照明が点いていて天井や奥壁まで良く見えました。戻り際にお礼を言いに行ったら、管理中に詠まれた誌や配布用の資料を頂きました。

自分は見終わっていたので頂きませんでしたが、この大きい墳丘の推薦見学ルート図や綿貫古墳群の簡易分布図も有るそうなので、初めて訪れる方は駐車場近くのトイレの隣の管理センターを尋ねると良いかもしれません。

地元の方には毎年恒例の行事だとは思いますが、ネット上にもこの姿はあまり紹介されてはいないみたいなので・・・。
昨年講演会で墳丘整備における木の伐採と、その後の草刈りは人件費も時間もかかると聞いてたので、古墳公園管理センターにいらした方にお伺いしたら、野焼きはものの30分程度で済むそうです。

時間の余裕は無かったのですが、石室の電気を点けてると教えて頂いたのでちょこっと上がってみました。

新たに開口部の格子戸には消灯時用にか(?)石室の写真が掲示されてます。左壁側の石が若干動いてる気もします。
前回は暗くて下の方しか写ってませんでしたが、今回は中の照明が点いていて天井や奥壁まで良く見えました。戻り際にお礼を言いに行ったら、管理中に詠まれた誌や配布用の資料を頂きました。

自分は見終わっていたので頂きませんでしたが、この大きい墳丘の推薦見学ルート図や綿貫古墳群の簡易分布図も有るそうなので、初めて訪れる方は駐車場近くのトイレの隣の管理センターを尋ねると良いかもしれません。
印西市刈谷古墳群
刈谷古墳群は炭焼遺跡西方の集落周辺で、印旛沼と師戸川に挟まれた台地上に分布する古墳群で、前方後円墳2(1)基、円墳4(6)基から成るとされます。
スカイアクセス印旛日本医大駅のロータリーから南へ出て2つ目の信号を右折、県道65号線を越えて駐車場の手前を南に折れます。道なりに1.5km進むと右手に鷲宮神社と東祥寺が在ります。神社の背後、山門の脇に民家が一軒建つほどの四角いスペースが有って四隅が盛り上がってます。

ここは前方後円墳の1号墳として登録されるも、平成の確認調査では円墳2基を確認したとされてます。
規模・向きについての詳細が掴めないのですが、スペースの西隅~北隅~東隅が土塁状に繋がっていて、上の画像の西端とこの北端の曲がり角が高まりになっています。

特にこちら側は土塁の隅と言うよりも径10m以上のマウンドをL字状に削った様に見え、えらく外側に高まりが拡がってます。ちば情報マップでの図上では後円部が描かれてる辺りです。
退いて両方を西より見てます。前方後円墳なら南西向きの墳長約20mの規模ですが、現状では奥側が四角いスペースの為に削られている上に左右の高まりが離れ過ぎていて、小円墳2基と見るのも厳しい状況です。

地元の方々は神社も含めお寺さん所有なので詳しいハズと仰っていたのですが、お寺の方はどなたも若くて何も伝えられた事も無ければ平成の調査も御存じ無いとの事でした。
東祥寺南側の竹林にはほぼ消滅の2号墳と、祠が祀られてる3号墳が並ぶとされますが、緩い傾斜地で何も確認出来ませんでした。どちらも詳細情報では竹林ではなく境内と書かれてるので、まさか四角いスペースの神社側である南隅の高まりが2号墳で、

東隅で祠が建つここが3号墳って事があるのでしょうか・・・?この2ヶ所はマウンドと言うよりも神社との段差地形と言う感じで、この祠の右奥から土塁状の高まりが続いてます。

3基(4基?)が集まる場所から南南西におよそ300mで、4号墳が記載されてる場所を東側の荒れ地より見てます。周囲からは全く見えませんが広く掘り下げられてます。航空写真では民家の屋根の奥の低い木立が墳丘にも見えますが、地表面はその奥の重機が停まっている高さです。

左奥の高い木立の奥に道が通っていて、そこから逆光で透かして見てもマウンド状の地形は全然見えませんでした。
上の民家の南南東およそ90mに在る5号墳を北東より見てます。

直径約12m、高さ約3mの円墳です。
東南東より見てます。他の墳丘の状況に比べてここだけ良好過ぎる状況で、近代に信仰か何かで盛られた塚の様にも見えますが、周溝が確認されてます。

裾部に石仏が集められているみたいで、北面にはお地蔵様が並んでいます。

南南東に17m程離れて半壊の6号墳が在ります。荒れ地になってますが立入禁止措置が採られてるので下草越しに断面の一部が見えるのみです。

直径約10m、高さ2m弱の円墳でしょうか・・・?
遺跡としてポイントされてはいませんが、群のすぐ近くの私有地内に削平中の円墳みたいな直径10m弱のマウンドが在りました。まず古墳ではないと思いますが、右手のブロックで保護されてる微高地には祠が祀られて真っ直ぐ南へ緩やかに下っていて、両者で前方後円墳にも見えてしまう位置関係です・・・。

土を運んだばかりなのか道上から断面が見えました。重機で削ってるだけなので版築は見えませんが、乾き具合を見ると土層が有る様にも見えます。

スカイアクセス印旛日本医大駅のロータリーから南へ出て2つ目の信号を右折、県道65号線を越えて駐車場の手前を南に折れます。道なりに1.5km進むと右手に鷲宮神社と東祥寺が在ります。神社の背後、山門の脇に民家が一軒建つほどの四角いスペースが有って四隅が盛り上がってます。

ここは前方後円墳の1号墳として登録されるも、平成の確認調査では円墳2基を確認したとされてます。
規模・向きについての詳細が掴めないのですが、スペースの西隅~北隅~東隅が土塁状に繋がっていて、上の画像の西端とこの北端の曲がり角が高まりになっています。

特にこちら側は土塁の隅と言うよりも径10m以上のマウンドをL字状に削った様に見え、えらく外側に高まりが拡がってます。ちば情報マップでの図上では後円部が描かれてる辺りです。
退いて両方を西より見てます。前方後円墳なら南西向きの墳長約20mの規模ですが、現状では奥側が四角いスペースの為に削られている上に左右の高まりが離れ過ぎていて、小円墳2基と見るのも厳しい状況です。

地元の方々は神社も含めお寺さん所有なので詳しいハズと仰っていたのですが、お寺の方はどなたも若くて何も伝えられた事も無ければ平成の調査も御存じ無いとの事でした。
東祥寺南側の竹林にはほぼ消滅の2号墳と、祠が祀られてる3号墳が並ぶとされますが、緩い傾斜地で何も確認出来ませんでした。どちらも詳細情報では竹林ではなく境内と書かれてるので、まさか四角いスペースの神社側である南隅の高まりが2号墳で、

東隅で祠が建つここが3号墳って事があるのでしょうか・・・?この2ヶ所はマウンドと言うよりも神社との段差地形と言う感じで、この祠の右奥から土塁状の高まりが続いてます。

3基(4基?)が集まる場所から南南西におよそ300mで、4号墳が記載されてる場所を東側の荒れ地より見てます。周囲からは全く見えませんが広く掘り下げられてます。航空写真では民家の屋根の奥の低い木立が墳丘にも見えますが、地表面はその奥の重機が停まっている高さです。

左奥の高い木立の奥に道が通っていて、そこから逆光で透かして見てもマウンド状の地形は全然見えませんでした。
上の民家の南南東およそ90mに在る5号墳を北東より見てます。

直径約12m、高さ約3mの円墳です。
東南東より見てます。他の墳丘の状況に比べてここだけ良好過ぎる状況で、近代に信仰か何かで盛られた塚の様にも見えますが、周溝が確認されてます。

裾部に石仏が集められているみたいで、北面にはお地蔵様が並んでいます。

南南東に17m程離れて半壊の6号墳が在ります。荒れ地になってますが立入禁止措置が採られてるので下草越しに断面の一部が見えるのみです。

直径約10m、高さ2m弱の円墳でしょうか・・・?
遺跡としてポイントされてはいませんが、群のすぐ近くの私有地内に削平中の円墳みたいな直径10m弱のマウンドが在りました。まず古墳ではないと思いますが、右手のブロックで保護されてる微高地には祠が祀られて真っ直ぐ南へ緩やかに下っていて、両者で前方後円墳にも見えてしまう位置関係です・・・。

土を運んだばかりなのか道上から断面が見えました。重機で削ってるだけなので版築は見えませんが、乾き具合を見ると土層が有る様にも見えます。

高崎市綿貫普賢寺裏古墳再訪
不動山古墳と共に、北側に並んでいる普賢寺裏古墳も立ち寄りました。お寺にお願いして駐車場をちょっとお借りして、墳丘をグルグル見学させて頂けました。
前回は前方部しか見えなかった南側より全景を見てます。肉眼で見る分にはこの様に歪んでは見えず、綺麗な墳形を保っているのが見て取れます。

南東より見てます。以前は後円部南面が下草が無くて上がり口みたいになってたのですが、今は墳頂へと続く草刈りされた場所は無くなってました。

後円部東側の周溝跡の微低地を見てます。奥の太陽光パネルを載せた民家は岩鼻村20号墳の址です。

許可を頂き墳丘上へ上がらせて頂いて、前方部より後円部を見てます。

後円部で180度振り返って前方部を見てます。

再度振り返って後円部墳頂の様子です。伐採前よりも下草は増えて引っ付き虫もいっぱい生えてました。

北側にも回ってみました。前回は岩鼻村20号墳址越しに見たのですが今は民家が建って見えなくなってしまいました。西隣のお宅にお声がけしたのですがお留守で、去り際に一枚だけ撮らせて頂きましたが、冬場でも手前の植樹が邪魔で写真だと良くは見えませんでした。

ちなみにお寺で境内に見られる二つのマウンドについてもお伺いしましたが、残ってる古墳としては裏古墳とこの堀米内1547所在古墳しか伝えられてはいないそうです。

前回は前方部しか見えなかった南側より全景を見てます。肉眼で見る分にはこの様に歪んでは見えず、綺麗な墳形を保っているのが見て取れます。

南東より見てます。以前は後円部南面が下草が無くて上がり口みたいになってたのですが、今は墳頂へと続く草刈りされた場所は無くなってました。

後円部東側の周溝跡の微低地を見てます。奥の太陽光パネルを載せた民家は岩鼻村20号墳の址です。

許可を頂き墳丘上へ上がらせて頂いて、前方部より後円部を見てます。

後円部で180度振り返って前方部を見てます。

再度振り返って後円部墳頂の様子です。伐採前よりも下草は増えて引っ付き虫もいっぱい生えてました。

北側にも回ってみました。前回は岩鼻村20号墳址越しに見たのですが今は民家が建って見えなくなってしまいました。西隣のお宅にお声がけしたのですがお留守で、去り際に一枚だけ撮らせて頂きましたが、冬場でも手前の植樹が邪魔で写真だと良くは見えませんでした。

ちなみにお寺で境内に見られる二つのマウンドについてもお伺いしましたが、残ってる古墳としては裏古墳とこの堀米内1547所在古墳しか伝えられてはいないそうです。

高崎市綿貫不動山古墳再訪
もう一年前になってしまうのですが古墳探訪記さんが綿貫古墳群で木の伐採が行われた事を記事にされてたのを拝見していて、今までの高崎市の墳丘は全部一日で周ったため1基づつをしっかり撮ってない事もあったので初冬の不動山古墳を撮影しました。
前回群として記事にした際以降の新発見は無いみたいなので、撮ってない角度も巡りながら見て行きます。まず南西より見てます。

下から不動尊堂に石棺の覆屋までも丸見えになってます。
東より見てます。参道の途中へ上がる坂は元から有ったのでしょうか・・・?北面へのスロープはそのまま前方部上へ続いてました。

一部に金属で擦った様な跡の見えた参道下の説明板も修復されてます。

やっつけで繋げて見ましたが真横からのアングルで見てます。バス停の横の祠は以前は全く気付きませんでした。

冬場でそう見えるだけかもしれませんが、周溝跡も整備されて見えます。

削られた前方部の上より後円部を見てます。切り株の見える辺りが前方部の本来の高さでしょう。

手摺の奥で枝葉の陰で見難かった参道の階段脇の解説板は少し移動してるように見えますが気のせいでしょうか?

階段上に立つ史跡記念碑です。

その記念碑が立つ南端、不動尊堂の建つ中央、土塁状に削り残された北端の3段になってる後円部墳頂もすっかり見開けてました。

なので後円部墳頂から前方部を見下ろしてます。下から見るのと違ってくびれ部が一部残っているのが良く分かります。

石棺の覆屋周囲もこんな感じで、見開けた分逆光になってしまった立て札だけは手持ちの機器では真っ黒に写ってしまいました・・・。

以前はくもの巣だらけだった石棺も綺麗になってました。

前回群として記事にした際以降の新発見は無いみたいなので、撮ってない角度も巡りながら見て行きます。まず南西より見てます。

下から不動尊堂に石棺の覆屋までも丸見えになってます。
東より見てます。参道の途中へ上がる坂は元から有ったのでしょうか・・・?北面へのスロープはそのまま前方部上へ続いてました。

一部に金属で擦った様な跡の見えた参道下の説明板も修復されてます。

やっつけで繋げて見ましたが真横からのアングルで見てます。バス停の横の祠は以前は全く気付きませんでした。

冬場でそう見えるだけかもしれませんが、周溝跡も整備されて見えます。

削られた前方部の上より後円部を見てます。切り株の見える辺りが前方部の本来の高さでしょう。

手摺の奥で枝葉の陰で見難かった参道の階段脇の解説板は少し移動してるように見えますが気のせいでしょうか?

階段上に立つ史跡記念碑です。

その記念碑が立つ南端、不動尊堂の建つ中央、土塁状に削り残された北端の3段になってる後円部墳頂もすっかり見開けてました。

なので後円部墳頂から前方部を見下ろしてます。下から見るのと違ってくびれ部が一部残っているのが良く分かります。

石棺の覆屋周囲もこんな感じで、見開けた分逆光になってしまった立て札だけは手持ちの機器では真っ黒に写ってしまいました・・・。

以前はくもの巣だらけだった石棺も綺麗になってました。
