FC2ブログ

八槻都々古別(つつこわけ)神社

JR水郡線近津駅の南南西およそ650m、久慈川支流の近津川沿いに建ち棚倉街道である国道118号線もカーブで避けてる(八槻)都々古別神社は日本武尊による創建と伝わる古い格式の高い大社で、日本武尊と味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀ります。

実はここの北北西およそ4.4km、棚倉城の西方に馬場都都古和氣神社という同名の神社がもう一ヶ所在って共に陸奥国の一宮と呼ばれたほか、県境越えて南に20km程離れた近津神社とで近津三社を成すとされますが、平安時代に編纂された「延喜式」に記載されている「都都古和気神社 名神大」が馬場と八槻のどちらの社を指すのかは確定していません。
yatukitutukokowake1.jpg
源義家にまつわる話がここにも伝わっていて、奥州征伐時に義家が千勝大明神と改称したのが近津の地名になったと伝わります。

社務所の近くから随身門と拝殿、本殿の並びを見てます。拝殿越しには見えず、単体では大きさが伝わり難い本殿が意外と大きい事が見て取れます。
yatukitutukokowake2.jpg
本殿の左奥から画像右外にかけて六つの境内社がL字に並んでます。

令和元年に県の重要文化財に指定された随身門です。
yatukitutukokowakezuisinmon1.jpg

建物に対してと言いますか、単純に大き過ぎる印象の扁額には「奥州一宮」の文字が。
yatukitutukokowakezuisinmongaku.jpg

享保年間に再建されたとされる八脚門形式の造りです。
yatukitutukokowakezuisinmon2.jpg

妻面を見てます。金や緑が退色していて煌びやかではありませんが、懸魚や蟇股、木鼻の彫り物は白く彩色され際立ってます。
yatukitutukokowakezuisinmon3.jpg

町教育委員会による説明板です。
yatukitutukokowakezuisinmonkaisetu.jpg

拝殿です。旧暦1月6日には伝統行事の御田植祭が行われ国の重要無形民俗文化財に指定されてます。
yatukitutukokowakehaiden.jpg

本殿です。随身門と同じく享保年間の再建とされる三間社流造の建物で、やはり県の重要文化財に指定されてます。
yatukitutukokowakehonden1.jpg

切妻面を見てます。随身門と違ってこちらは朱の方が褪せて見えますが、同様に細かい彫刻が見え易くなってます。
yatukitutukokowakehonden2.jpg

ただ彫刻以上に目を惹かれたのはその廻り縁を支える四手先で支える斗栱(ときょう)と呼ばれる組物です。
yatukitutukokowakehonden3.jpg
普通は張り出しの大きい多宝塔の屋根に使われる形式で、塀で囲われる場所で支える重量も無い部位に用いた仰々しくも見える造りなのですが、ネットで探しても画像すら出て来ません・・・。

本殿の方の説明板です。
yatukitutukokowakehondenkaisetu.jpg
スポンサーサイト



桜川市鹿島神社本殿

八幡山古墳の南およそ400m、同じく観音川を西に見下ろす台地縁に境内に古墳群も在る鹿島神社が在ります。

拝殿です。現在はすぐ東側に車を置けるスペースが有って参拝できますが、南に向かって広い境内が残り参道も200m以上続きます。裏手の鎮守の森に円墳が3基在ります。
smakabekasimajinjahaiden.jpg
左手前の標柱は県の文化財に指定されてる本殿のモノです。

拝殿の東側に由緒書きが設置されてます。天正時に大修復されたのが現存する本殿と書かれてますが、彫刻などから現在県や市では元禄の再建と推定しています。
smakabekasimajinjayuisho.jpg

そこから北に回ると茅葺きのままで保存されてる本殿が見えて来ます。屋根はネットで保護されてます。
smakabekasimajinjase.jpg

東より側面を見てます。一間社流造(ながれづくり)と言う一間四方の社殿の切妻屋根をそのまま伸ばして向拝に繋がってる構造です。
smakabekasimajinjahondene.jpg
千木は先端が垂直になる外削ぎなので祀られてるのは通常男神(おがみ)になります。

北西より背面を見てます。雑草が生えて管理が行き届いてない様にも見えますが、雨中でも屋根自体の傷みによる雨漏り等は見られません。
smakabekasimajinjahondennw.jpg
明日は裏手に保存されてる3基の円墳に続きます。

志賀直哉邸跡 書斎

JR常磐線我孫子駅の南東およそ1km、手賀沼を南に臨む台地縁の周りは鉄道開通後高級別荘地になり、近衛文麿元首相や柔道家嘉納治五郎をはじめ白樺派の文人達が移り住みました。志賀直哉もその一人で大正4年から約8年間の最も筆が進んだ時期をこの地で過ごしました。

市役所から台地下を西へ900m程進むと右手に邸宅跡が緑地公園として残されてます。
sigateiato1.jpg

敷地の北側には志賀直筆の間取り図を基に推定復元された母屋の平面が再現されてます。
sigateiato2.jpg

この様に間取りも壁部分を別な色にして、各部屋割も表示されてます。ただ右側(北側)の崖裾部は今でも湧水する場所で現在は池になってます。
sigateiato3.jpg
電気の来てない当時は母屋の北側で横井戸を掘って天然の冷蔵庫にしていたそうです。

推定玄関のベンチの角には邸宅についての説明板が設置されてます。主に建物はこの母屋と東側の書斎、そして台地の上に建てた「離れ」から成ります。
sigateiato4.jpg
今も残る斜面の階段を上がって明田古墳の存否を確認出来るかもと思いましたが、離れ跡地に建った民家の庭先に出てしまうので断念しました。

推定縁側の中心には本の形をした説明板で、ここでの執筆について書かれてます。
sigateiato5.jpg

住まいの説明板で縁側付近を撮った写真で赤ん坊の次女留女子(るめこ)のちょうど真後ろの客間南西角のベンチには近隣に住み着いた文人達とのエピソードなどが紹介されてます。
sigateiato6.jpg
多くの別荘が台地上なのに、崖下のこの場所を選んだ理由に義理の従兄でもある武者小路実篤との交流も挙げられてますが、互いの行き来に舟を漕いでたとは知りませんでした。

母屋の東隣には別棟で書斎が建てられました。床面積約44坪で杉皮葺き切妻造りの木造平屋です。中は六畳間に床の間やトイレが有って、東側に押し入れが張り出してます。
sigateiato7.jpg

押し入れ側より見てます。現在は屋根は銅の平板で葺かれ、漆喰塗りの壁は下見板張りに改変されてます。
sigateiato10.jpg
志賀の転出後は市内に移築されてましたが昭和の終盤に再移築されて一部改変の上修理されました。旧位置に戻ったとされますが、古写真を見ると現在の様に母屋に対して斜めではなく、並行で南向きに建てられていた様です。

先ほどの間取り表示の右奥に書斎の位置も表示されてます。これは母屋内の別な書斎で、奈良県に現存する旧居にも1階と2階それぞれに書斎が有ります。一説によれば書斎に入る陽を気にして使い分けたとか・・・。
sigateiato9.jpg
奇しくもここで完結出来なかった「暗夜行路」の続きを、奈良の方の書斎で15年後に執筆し完結させ、その両方の書斎が現存してる事になります。

書斎の解説板です。志賀本人が設計し、市内で「鷹大工」と呼ばれ名高い佐藤鷹蔵によって建てられた事から市の文化財に指定され、週末のみ公開されてます。
sigateiato8.jpg

庭跡の道路側には志賀と雑誌「白樺」で、或いはこの別荘地で関わった人達を相関図共に紹介されてます。
sirakabaha.jpg

現在は手賀沼との間に住宅地が出来、湖岸までは400m程の距離に開いてます。

JR鶴見線国道駅

横浜市鶴見区生麦に在る国道駅は昭和5年に当時の京浜国道(国道1号)沿いに鶴見臨海鉄道の駅として開業した駅です。
kokudoueki1.jpg
kokudoueki2.jpg
現在は国道1号線→15号線、鶴見臨海鉄道→JR鶴見線に変わってます。

駅入り口横の店舗跡は近年塞がれてしまいましたが、屋号テントが除かれたコンクリートの部分には大戦中の機銃掃射の弾痕が残ります。
kokudoueki3.jpg

路線図で見る位置だとこの辺です。この下に券売/Suicaチャージ機が1機だけ設置されてます。
kokudoueki6.jpg

昭和46年から無人駅となり、自動改札すら有りません。ICカードの入場の仕方は分かりますが、切符で入る人はどうするのでしょう?
kokudoueki5.jpg
有人時代の名残だった改札の木製柵も撤去されてしまってました・・・。

入場口から下り線1番ホームまで上がる階段です。人よりも多く来るのか鳥除けのスパイクが・・・。
kokudoueki7.jpg

駅は2面2線の相対式ホームになっており、階段中央のこの橋で上り線2番ホームへ行きます。
kokudoueki8.jpg
奥の壁を見ると分かる様に開業時は橋が無く、2番線用階段は直進していて現入場口の向かいに別個の入場口が有りました。ウィキペディアに当時の上り線改札付近の古写真が紹介されてます。

そこから下を覗くと昭和の雰囲気満点のガード下商店街が見られますが、ほとんど閉店していて廃墟感すら漂わせてます。
kokudoueki9.jpg

2番線ホーム東端から鶴見方面を見てます。線路上も市街地内と思えないほど雑草が生えてますがホーム上は普通の駅です。
kokudoueki10.jpg

駅番号は「JI 02」です。ここから鶴見駅寄りにおよそ350m、東海道線や京急線を越えた先には大戦中に廃止になった本山駅のホームが今でも残ってます。
kokudoueki11.jpg

橋の下から国道側を見てます。照明も古臭くてやや黄色味を帯びていて寂れた感を上げてます。
kokudoueki12.jpg

反対側を見てます。10年くらい前までの訪問記を拝見するとこんなベニヤ板街ではなく廃れた商店街風だった様ですが、この有り様だとじきに心霊スポットにされちゃいそうです・・・。
kokudoueki13.jpg

御文庫(成田市三里塚)

三里塚記念公園内、貴賓館の裏手にダストシュートが付いた様な低いマウンドが在ります。これが御文庫と呼ばれ第二次大戦当時の皇太子、今の上皇様専用に造られたという防空壕です。
gobunkobakuhunogasiout.jpg
このハッチは爆風逃がしという施設です。

またもやっつけ画像ですが地下の構造を描いてみました。青い矢印の爆風逃がしは付近で被弾が有った時に風圧をここから上の画像のハッチへ抜けさせて内室を護る仕組みです。
gobunko.jpg
基本「H字」型の左右対称の壕で、中央の横棒部分に主室が有り、互い違いの鉄扉を有する前室が両脇を固め、縦棒部分は爆風逃がしとその反対側が出入り口になってます。

見学は三里塚御料牧場記念館受付か管理をしてる男性に申し出て解錠して頂き東側入口から一方通行で見学します。入口左手に壕についての解説が貼られてますが、昭和天皇のための吹上御所地下の御文庫と違い、こちらの御文庫の防空壕としての記述が宮内庁に全く無いのだそうです。
gobunkokaisetu.jpg
昭和末期に一度出入り口は埋められてしまいましたが、平成になって調査の上整備されました。

階段を下りて進むと右手に前室の鉄扉が有ります。奥は爆風逃がしで、管理人さんが脚の具合が宜しくなかったので中に入らず明かりが消えてて真っ暗ですが滑り台状に斜め上に風圧を導くスロープになってます。
gobunkowzensituiriguchi.jpg

鉄扉の横から西側前室を見てます。奥行き1.32m、幅2mの狭い部屋で爆風逃がしと同様に被弾時に主室への衝撃・風圧を緩和する為の部屋です。
gobunkowsyusituiriguchi.jpg
丸電燈は当時のままのモノだそうです。

そしてここが中心の主室です。L4.5m×W2.5m×H2.571mの広さで、床面で地上-5.2mの深さでとてもひんやりしてます。
gobunkosyusitu.jpg
コンクリートも調べられ、現在でも高層棟に使われるスーパーコンクリート並みの質で更に厚みが十分に有り、現在でも中性化もさほど進んでおらず鉄筋にも何の心配も無い状態だそうです。

主室と東側前室を仕切る鉄扉です。配線整備のため固定されてますが思ったよりも薄っぺらいです。
gobunkoesyusituiriguchi.jpg

地上への出入り口の扉です。配管のすぐ上が地表高で、奥の床が主室床面レベルです。
gobunkoeiriguchi.jpg
どこを刳り貫いて調べたのか見ませんでしたが、ボーリング調査の結果0.7mの厚さのコンクリートに4cmの厚さで仕上げのモルタルを盛り、更にその上に数ミリの厚さで漆喰が塗られる構造だった事が判明してます。

大戦末期、実際に使用されたのかどうかも記録が無いため不明だそうです。
プロフィール

あんけん

Author:あんけん
多趣味で統一性のないアラフィフです。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
アクセスカウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR