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水戸城大手門

明治期に数枚の古写真を残して撤去され道路となってた水戸城大手門。遺構調査の上昨年復元工事が完成しましたが、直後のコロナ禍と緊急事態宣言等で開通式どころか門自体も永く見に行けない状況でした。平日の現地説明会に参加したり、一枚瓦城主の寄付もさせて頂きましたが、年末の某講演会に合わせて漸く見学出来ました。

まずは弘道館前の丁字路より見てます。以前は学校関係者等の車両が通行してましたが、復元に際して自転車も走行禁止になりました。監視カメラが有るとはいえ、走行を邪魔する柵も無いのに通行する自転車が皆押して歩いているのは凄いと思いました。
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ちょっと位置がズレてますが、施工に携わった吉田工務店さんのブログに旧状の古写真が紹介されてます。

大手橋の上より全景を見てます。L(梁間)5.73m×W(桁行)17.18m×H13.34mの大きい門です。
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本来は左上の土塀が手前で折れて練塀の上から門に接続するのですが、遺構保存の為か真っ直ぐで切れてるので、攻め手は容易に中へ入れてしまう構造になってますが致し方無いですね。

通り抜けて城内側全景です。正面に弘道館が建ち、右手(北側)門内に潜り戸と番所構造が再現されてます。
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少し戻って見上げてますが、比較する物が無いので部材が細く見え、実物の大きさが全然伝わりませんね・・・。
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番所見張り窓も再現されてるのですが入口がどこにも無いので、他の見学者の方も「中はどうなってるんだろう?」と・・・。
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向きを変えて切れてしまってる土塀の白い断面も、城内側の壁面もコンクリート再現なので違和感は残ります。

土塁上から側面を見る事は出来なくなりましたが、工事中は囲いで全然見えなかった入母屋も堪能出来ます。
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古写真に鯱は写ってませんでしたが、発掘調査で鯱瓦の一部が出土したので再現される事になりました。

再建に先立ち、調査で南北袖側で確認された練塀です。ここでは瓦塀と呼ばれ、両側両面4ヶ所の内、3ヶ所は漆喰と瓦材で仕上げられてます。
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門解体後道路化の際に地面が30cm程堀下げられ礎石も失われてましたが、練塀の位置と残された寸法から門の位置が割り出されてます。

壁面をアップで。遺構を保護するためにALCで囲って細い木材を貼り、瓦の薄切りを漆喰で固めてます。
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パターンは実際の遺構を発掘して参考にされてます。画像は3年前の現地見学会の時の撮影で、門と土塁の間を全て塞ぐのではなく、門の表裏別々に造られてました。その間には石組みの排水路も見つかってます。
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この画像では見えてませんが実物のパターンは水戸市のフェイスブックで紹介されてます。

丸瓦は門本体のみに葵の御紋が入ってます。門が大きく手入れが届かないのか蜘蛛の巣が多かったです。
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表面の北側の塀だけ側面が板張りになってます。
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よく見ると一番下に覗き窓が設けられて、発掘された練塀の実物の一部が見られるようになってました。
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遺構は火災の跡が無いので明和の大火の後の復興時のモノと推定されてます。

大手堀から上がって来る階段より見上げてます。駅から最短距離で来た場合最初に見る姿です。
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市立第二中学校の前より見てます。一般的に大手櫓門は枡形の城内側の二の門に使われますが、ここでは櫓門の内側が枡形になってます。工事前のグーグルマップのストリートビューと比較すると嘘みたいです。
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勿論撮影位置の手前にも門が在ったハズですが形式が不詳なままらしく、復元模型では省略されてました。

自分ではすっかり忘れてたのですが、一枚瓦城主の特典で絵葉書が送られて来て、寄付した瓦は正面左上の鯱の近くに葺かれてるそうです。
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同封の挨拶文に残工事は歩行者通路と書かれており、2案有った動線のどちらかで決定してる模様です。
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水戸城二の丸隅櫓(明けましておめでとうございます)

新年明けましておめでとうございます。結局昨年はオリンピックも延期になり、今年の新年は新国立競技場を纏めようかとも思ったのですが、年末以来のコロナの拡大で不要な都内の訪問は控えてしまいました・・・。オリンピックの開催云々抜きで何とか収まってくれればと思うのですが・・・(´・ω・)。

整備工事現場説明会に参加させて頂いた水戸城二の丸角櫓復元及び土塀がほぼ完成し(竣工は来月)、残工事が有っても小学校内ですし、このコロナ禍中では公開も行えないと思って見に行きました。
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市の完成予想図と棟の向きが変わる事は工事中でも解ってましたが、一重外壁も塀と合わせた黒い下見板張りでの仕上げになってました。

復元の目的の一つに駅ペデストリアンデッキからの眺望というのも有ったと思いますが、現状はまだ手前に残ったビルで遮られて隠れる部分があり、
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歩道橋に回って近寄っても土塁下の特徴的な建物とのコラボになってしまいます。
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もう一点難点なのは、もし御三階櫓の復元が実現してもこの向きだとほぼ重なってしまう事でしょうか。

有名な黄門様御一行像からだとホテルと重なって北側続櫓の一部しか見えません・・・。御老公の奥、国道沿いの東側からも見上げられる場所が有るのですが、復元された塀の「折れ」がちょうど被ってしまいます。
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景観の整備がされるならまだまだこれからですが、徳川の城として壊され学校地となって地形で偲ぶしかなかった昭和の終わり頃には想像すら出来なかった状況です。

元大手堀の県道232号線に入って麓の駐車場から見上げてます。コンクリートの土塁の補強が丸見えになるのでここまで草刈りを徹底しなくても良い気もします。
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ちょっと傍に近付き過ぎのキツイ角度にも見えますが、県道は両側に電線が有って向かいの予備校側からだと電線だらけに写ってしまいます。

ぐるっと周って旧三の丸の林業会館前から見てます。こちらからだとカッコいい角度で見えるのですが、ちょうど背後のマンションと重なってしまいます・・・。
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手前に張り出してる近代的なコンクリートの基礎も草で隠れた方が見栄えが良くなりますね。

現説時は基礎しかなかった塀も完成しています。
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昨年竣工するも開通記念式を見に行けてなかった大手門とも繋がってます。
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書いてて気付いたのですが、年末も近い日曜日の午後の撮影なのに人が一人も写ってませんね・・・。

上野白井城(後編)

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ここから先は市の指定史跡になってる範囲です。そのため城址の標柱もここに立ってます。
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右手(西側)を見ると吾妻川に向かって幅約20m、深さ約10mの空堀が続きます。
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左手(東側)には横矢をかけた三日月堀と本丸の城塁があって、雨降りのお陰でちょうど三日月形に水が溜まってました。カーブする右側に堀底へ下りてく遊歩道が見えます。
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晴天時には涸れてしまう様ですが、腰曲輪へ続く堀で三日月部分だけ底がやや深くなってるそうです。案内して頂いた方によればこの辺は子供の頃は恰好の遊び場だったそうです。

城内で唯一残る枡形虎口です。西側土塁の内側には石垣の一部が残ってます。
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左手に動線をクランクさせる枡形門で標柱も立ってます。二の丸や、三の丸、北郭にも同様に在ったハズです。
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内側の野面積みの石垣には太田道灌との関わりが有るとも、廃城前の本多氏時期ものとも伝わります。
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木の根で石が動いて危険な為か、周囲だけローピングされ立ち入り禁止になってます。

東側土塁は約4mの高さが有り、石祠が祀られていて一瞬古墳転用の物見台に見えてしまいます。
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実際は北東部に突出した本丸を囲う壁状の土塁で、石祠の横に標柱が立ってます。
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虎口を入って本丸内へ進むと右手に城址案内板が設置されてます。昨日の記事の周辺図はここからの抜粋です。
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航空写真をアップで。畑中に空堀の地形が残されてる事や、西側直下を吾妻川が流れているのが見て取れます。
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その左隣には推定復元図が寝そべる形で設置され、一部案内板の考証と異なる解説が書かれてます。
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不動塚古墳の上と本丸土塁上に物見櫓が描かれてます。

更に左側には他の曲輪の標柱と異なりここだけ端の土塁脇に本丸の標柱が立ってます。
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草に埋もれてて、どかそうとしたら思いっきり脛を打ってしまいビビッてそのまま撮影しましたが、あとで調べたら切り株の椅子が並べられてるだけでした・・・。

更にその左隣には築城直後に訪れた京都の学僧万里集九の歌碑と説明板が並びます。
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説明板をアップで。ここで重要なのが当時の城主は先の二つの解説で書かれてる推定築城者の長尾氏ではなく山内上杉顕定で、長尾景春が反乱を起こし敗退した時期と考えられてますが、最近の研究ではこの騒動以前に長尾氏が居た証拠が無く築城は別の手による可能性が謳われてます。
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本丸内部の様子です。東西約150m、南北最大約120mのほぼ三角形に近い台形で、柵の奥の竹藪は吾妻川へ下る断崖になっていて土塁が有りません。元から不要とされたのか川の浸食で崩落したのかは不明です。
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本丸が奥にかけて少しづつ高くなってるので虎口横程の迫力は有りませんが西~南にかけては3m以上の高さの土塁がしっかり残り、上を歩く事も出来ます。
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復元図で物見櫓の描かれていた本丸の土塁南端には3基の石祠が祀られてますが、いろいろな訪問記を拝見してみるとここに移動したのは最近の事みたいです。
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本丸の土塁を越えた南側は詰めの丸的な笹郭となってます。一辺30m弱の三角形で本丸よりもだいぶ低くなってます。
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柵の先端外側、主郭の南端には北郭の様に古墳転用で大きくはないものの物見台状に高まってるのが見えるでしょうか・・・?

下りる階段が埋もれて何処に有るのか見えませんでしたので近寄れませんでしたが、二の丸などと同様に曲輪の内側に標柱が立ってます。
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上野白井城(前編)

榛名山の東で利根川と吾妻川が合流し、渋川市の市街地になってます。現在は鉄道も関越道も避けて国道17号線だけが通ってる合流点内側の場所で睨みを利かせたのが白井城です。築城時期は詳らかではありませんが、15世紀中頃山内上杉氏の重臣の長尾氏によって築かれたとされます。

まずはいつものやっつけ画像で城の主要部を。以前記事にした不動塚古墳の在る北郭から南の本丸へ向けて曲輪が続く連郭式の縄張りで、各曲輪の北面や西面には防御の土塁が有ったハズですが、高さがしっかり残るのは赤い部分で、ほぼ市の史跡に指定された本丸のみです。もしかしたら土塁に取り込まれ破却された別の古墳も在ったのかもしれません・・・。
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東側の高低差の有る曲輪の下には堀の出口を隠すように土塁状の腰曲輪が築かれ、その上に神明宮が鎮座し現在は堀底を抜けて主郭に上がっても行けますが、訪問時は天気が良くなく堀底も水を湛えていて通り抜け出来ませんでした。

東側は約10m低くなってて旧沼田街道が通り、水色の部分が白井宿となってました。白井宿の南側の低い場所にも濠で区切って南郭・新郭などの曲輪を展開してました。
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不動塚古墳を転用した北郭の物見台です。現在は墳丘の横から本丸虎口まで真っ直ぐ入れる道が通ってます。
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ちょうどこの辺りが大手口とされますが、三方向から堀が来る合流点で、縄張り図を見ると旧城道と大手口は墳丘左手だったのではないかと考えてしまいます・・・。

不動塚古墳の向かいに建つ北郭の標柱です。秀吉の小田原征伐の際にはこの北郭を攻め手に占拠され開城してます。
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曲輪内は一面の農地になってます。奥の建物から先が三の丸で、北郭との間堀は埋まって浅くなってますがその右側に残ります。
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左に曲がっていく道も堀跡で、三の丸にぶつかって東側の腰曲輪に続いていました。

主郭北端である曲輪北面は直線状で、土塁跡が民家や農地との境になってます。
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吾妻川沿いに連なる金比羅郭と北郭の間の堀跡です。車の奥に金比羅郭の南端が見えてます。
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金比羅郭に続いて北側には寺社が集まってます。お近くに永年お住いの男性が案内して下さったのですが、金比羅郭の堀は小規模だったのか北面の痕跡は全然残ってませんでした・・・。

現在の本丸へのアクセスルート脇に立つ三の丸の標柱です。左の道を真っ直ぐ進むと本丸です。
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三の丸も同じく全面的に農地化されていて、北からここまでは見て来ても大した遺構も無さそうに見えますが・・・
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二の丸へ渡ろうとすると畑になりながらも幅15m以上の堀がしっかり残されてます。横矢のかかるこちらはアクセスルートの西側です。
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直線状に段丘端に下りながら続く東側の堀も残り、雨で水が貯まってます。こちら側は耕作で利用されず草刈りもされてタイミングが合えば堀の形状も良く見られるそうです。
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二の丸の標柱です。画像では見えませんが、樹々の奥に本丸の土塁が見えて来てます。
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二の丸もやはり一面の畑となってます。面積は三の丸の方が大きいのですが見通せる分こちらの方が広く見えます。
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奥に見える打ちっ放しは吾妻川の対岸になります。

二の丸の西端は入って見学出来ませんが所々土塁が残っている様にも見えます。
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左手に本丸の土塁が迫るのを見ながら、真っ直ぐ来た農道兼アクセスルートが左に緩いカーブになった先は本丸へ渡る土橋です。
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ここは虎口も残り往時と同じ位置の登城ルートになります。

続きます。

下野水口(みなぐち)城(館)

JR東北本線西那須野駅の東におよそ4km、那須赤十字病院の西側の畑の中に耕作に邪魔にしか見えない土の壁が続いてます。
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これが武蔵より移ってきた大俵氏(後の大田原氏)が築いた水口城の跡で市の指定史跡になってます。北東より見てます。

北西より見てます。背後は赤十字病院です。
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残ってるのは曲輪北側と西側の土塁で、外側の堀は完全に埋められて農地に取り込まれてますが、3m以上の高さの有る土塁の折れを見る事が出来ます。
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ただその中央付近は用水路が造られてまるで虎口の様に断ち切られてしまってます・・・。
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土塁残存部東端より土塁内側を見てます。鬼門除けか北東の隅が15m四方ぐらいで内に凹んで築かれてます。
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反対側、土塁残存部西端に以前は土塁上に在った標柱が移されてます。
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その南、南西の隅より曲輪内を見てます。東西約75m、南北約60m程の単郭構造で方形館の防御を固めた造りになってます。
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土塁跡左側は堀址ですが、なんとコレ北に300m離れた荒井館と繋がっていた様で、更に北の寺院跡付近からすぐ西の蛇尾川に平行に水流が有ったと考えられてます。

南側の土塁は削平されてますが、その前に堀の部分が農地化されてたお陰で堀の形状が見て取れ、一部に今でも窪んだ場所が残ります。
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グーグルマップをはじめ各航空写真で見ると堀の形が明瞭です。

更に南東隅には先日の大塚遺跡の様な堀の外側の土塁の高まりが残ります。
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もしかしたら西側の水流を取り込み水位の高めな水濠だったのではないでしょうか・・・?

その外側から見てます。古い航空写真で見た印象では南東に拡張した跡が窺えるようにも見えます。
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その拡張曲輪(?)に「町島豊後守發祥之地」の石碑が立ち、その横に
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大田原市教育委員会による解説板が設置されてます。昭和初期に測られたこの図だと土塁に折れが無くほぼ正方形に近い形状で書かれてるのが気になりますが、周囲には他にも土塁の痕跡がまだ残っていた様です。
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水口城は5代続いて使われた後、大田原城に拠点を移して廃城になってます。

プロフィール

あんけん

Author:あんけん
多趣味で統一性のないアラフィフです。

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