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前橋市愛宕山古墳現地説明会

総社古墳群では国の史跡に指定されている総社二子山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳以外の墳丘の遺産価値を高めるべく調査が行われていて、遠見山古墳に続いて愛宕山古墳が倍の4ヵ年計画で調査中です。以前墳形を確認する調査が行われて円墳と思われてたのが実は方墳だったと判明してます。墳丘は市で所有する北と西側、お寺が所有する墳頂、個人で所有される石室付近と権利が分かれていて、今回前半は一部墳頂も含めた墳丘北面・西面の調査が行われてます。

調査期間の折り返しであるこの時期、コロナ禍で緊急事態宣言も延長される中ですが、感染防止対策を踏まえ少人数で2日間4回に分けて現地説明会が行われました。初日は地元の方向けで、2日目は古墳に関心の高い人が集まったそうです。自分も車で直行直帰で参加させて頂きました。

トレンチは2本墳頂から周溝まで設定されて、これは市立第六中学校側の西トレンチです。
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従来二段築成と考えられてましたが今回の発掘で三段築盛であった事が判りました。

こちらは北トレンチで、駐車場になってるので周溝の端までトレンチが延ばされてます。
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30数年ぶりに篠が刈られ、三段築成の墳丘が露わになってます。

浅くて広い周溝は幅約18m、深さ現状約1.5mで、もう若干深い可能性が有ります。
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手前の周溝からの立ち上がりが低くなってますが、これは後世に地面を削られた為で、築造時の旧表土はほぼほぼ現在の地表と変わらなかったそうです。

見かけ上周囲を石垣で固められた二段築成と考えられてましたが、これはその上段に見えていた部分の現在表面に見える葺石です。
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篠が密集して上がるのも困難だった墳頂もトレンチ設定に伴い一辺約10m程の平坦面もスッキリしました。
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開始時間までに当日参加の方を含めて50名ほどの人数となり、市教育委員会文化財保護課田中課長の挨拶の後2班に分かれての解説となりました。
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周溝では群馬県立歴史博物館の右島和夫特別館長が解説して下さいました。
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黒い土層に挟まれて1108年の浅間山天仁噴火のB降下軽石層が確認され、ちょっと擦ると・・・
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この様にサラサラの火山灰状になります。
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墳丘の葺石については前回に引き続き発掘担当の小川氏が解説して下さいました。またもトレンチ内の氏を見下ろしてます。氏と立ち上がり面の間に石列が見えます。
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場所は北トレンチの1段目のテラス面で、大小の川原石で水平面を出しているのが見て取れます。石室とは反対面の地上から見えない部分なのに丁寧な施工がなされており、すぐ北西で先の首長が眠る二子山古墳を意識している可能性が考えられてます。

説明は北トレンチでしたが、陽当たりの良かった西トレンチで各段を紹介します。これは1段目の葺石です。
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この基部と周溝の立ち上がりを調べて旧表土の高さが割り出されてます。

広いテラス面を持ちその上の2段目です。崩れて流れたにせよ、ラインの上に多くの川原石が見て取れます。
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現在は崩れた天井石の隙間で石室が開口しているのでちょっと高さが低く感じられますが、このテラス面が石室床面のレベルです。

一番上の3段目です。このテラス面が石室の天井レベルになります。北トレンチではこの立ち上がり面肩部に大きい木が生えていたので、その根で少し壊されてます。
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裾部周囲を固める石垣は1段目の葺石よりもやや外側で、内側から近代の遺物が見つかってる事から明治以降に施されたものと考えられてます。
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その断面からすると明治以降だけでも地面が大分上がっていた事が見て取れます。

北側トレンチではテラス面の一部が深く掘り下げられ、墳丘の土層の表示もされてました。
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先ほどの立ち上がり面から離れたテラス面の石列からは、今見えてる葺石面の途中まで後から造られた段があって5段に見えていた可能性も有ります。
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もしくは上のテラス面のエッジまで直線状に葺かれていた可能性も考えられます。その場合は今見えてる立ち上がり面は葺石ではなく墳丘内石列になるのでしょうか・・・、これは狭いトレンチではなくもっと広く調査しないと判りませんね。
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実際今見えてる立ち上がり面は約40度の勾配で、約25度だった遠見山古墳よりも大分急な角度です。

こういった考えが出来る最大の理由は、2本のトレンチとも葺石面がほぼ綺麗に残ってるのにこれだけの量の川原石が段築のラインの上から出てるからです。
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これらの川原石は現在よりも遠い利根川旧流路(現在の広瀬川や桃ノ木川付近)からわざわざ運ばれた事はほぼ確実で、手間をかけて造られていた事が解ります。

愛宕山古墳は群中で前方後円墳が造られなくなった最初の方墳で、県内を見渡しても埴輪を立てなくなった同時期の大型方墳はここ1基のみである事からも重要性は高まってます。
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常陸真壁城令和2年度現地説明会(後編)

3班に分かれたもう一つ、B地点は雨天のため受付テントの隣での遺物説明でした。宇留野氏による説明です。
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晴れてたら呈茶コーナーのテントで予定されてたので、移動で展示数も抑えられたのか少なめでした。

まずは甕や擂鉢です。古代遺跡で言う土師器と須恵器の様に2種類有って、赤い方は外城出土ですが黒い方は庭園跡出土品で、この時代だと瓦質(がしつ)土器と呼ばれC地点で出土してます。
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場所や見方によって瓦質土器の基準・価値の判断は異なりますが庭園の格式を重んじるここでは「良い物」として扱われたものでしょう。

同じような模様がそれぞれに入れられてます。使う場所で質を変えて差別化してるのは大変興味深いです。
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これは火打石です。那珂川と久慈川の間に火打石が採れるとして有名な玉川流域のモノではないかと思われる瑪瑙(めのう)です。
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使用方法の参考に本丸体育館の方で出土していた瓦燈も展示されてました。

よく見ると昨年展示の火鉢と同じ模様が!
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これは国産の茶碗類です。右の湯飲みは柿釉と呼ばれる鉄分の多い釉薬が塗られて焼かれてます。
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これらも庭園内のモノとそれ以外で出たモノとでは釉薬や仕上げに差異が見られ、良い物を庭園で使用していたそうです。

これは平安~鎌倉期に中国で生産された青磁の欠片です。ただでさえ高価な品でしたが当時既に年代物の個体を所有し、時には使用されたのでしょう。これも庭園の格式に拘っていた証の一つでしょう。
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印の意味は良く解らないそうですが、直訳するなら舜帝が河浜で作った陶器(歪む事が無いとされる)の流れをくむといった感じなのでしょうか・・・?

これはもう大量に出土しているかわらけと、風炉と呼ばれる当時のコンロです。
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似た形の土風炉は今でも茶道で使われ通販でも売られてます。

脚の方を裏返して見せて下さりました。完品なら宇留野氏の拳の位置にもう一脚有りました。
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最初の画像でテント内反対側の列は「県内城館紹介コーナー」で、調査された城郭の遺物などの出張展示でした。

これは水戸市から河和田城のかわらけです。
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これは水戸城のかわらけです。二の丸の隅櫓はほぼ完成していて、竣工は来年の2月だそうです。
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ここでは市埋蔵文化財センターで開催中の企画展「江戸氏の野望」の展示解説シートや関連年表が配られてました。

各城出土で持ち寄られた展示は殆どが食器類でしたが笠間市からは笠間城の瓦が展示されました。震災直後に行った画像を編集した記憶が有るのに記事が無い・・・?アップしたつもりで消してしまっていた様です・・・。
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震災で損傷した天守台ですが、調査を兼ねて修復されたとの事。でも台上の佐志能神社周辺は機械も上げられない為修理に取り掛かれないままだそうです。

これは下妻市から多賀谷城で採集されたかわらけです。
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大宝城の遺物の一部です。他にも40次調査時の遺物も有りました。
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これは結城市から結城城の西館付近で出土した遺物です。
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これは城ノ内遺跡(市内の城ノ内館ではなく多功城)から出土した遺物の一部です。
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結城市の文化財マップ「時の旅人」が配られてました。

土浦市からも土浦城出土品が沢山展示されてました。城のガイドパンフレットの配布も有りましたが、半年以上前に終わってるハズの企画展示のチラシも配っていてアレ?っと思いましたが、緊急事態宣言を受けてひと月近く延長してたんですね・・・行きたかったです。
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こちらの瓦質土器は土師器の様な赤い素焼きに見えますが、これは明確な区分が無いためで土師質焼成に転化させた瓦質土器として分類される場合も有ります。

17世紀代の古伊万里片も有りました。退化したと書かれてる龍の顔が愛嬌の有るアメコミに出て来そうな感じで気に入りました。
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この横にはどなたもいらっしゃいませんでしたが常陸太田城の現地説明会資料(一部異なる)が貰えました。

これは資料と一緒に頂いたお土産の御城印です。コロナ禍で欠席になった方にも送られるとの事でした。
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常陸真壁城令和2年度現地説明会(前編)

コロナ禍が再燃する中お天気も予報よりも悪く回復する見込みの無い状況でしたが今年も真壁城中城(なかじょう)庭園跡の発掘が続けられ現地説明会が行われました。
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オレンジに見える土塁の復元も引き続き行われてました。

今年度はコロナ対策で三密を避ける為に事前応募制となり、午前中は市内の方、午後は市外の方と分けられました。
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開始の挨拶も密集を避ける為に受付時点で3班に分かれて、散った状態で解説スタートのタイミングの為に行われました。

自分も振り分けられていたA地点は昨年の園路の入り口側の発掘エリアです。掘った土を主殿跡に物見台状に盛り、そこから見てますが今年の発掘部分は中央の3トレンチで右側の開いてるトレンチは昨年度部分です。
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奥の駐車場が二の丸で、その奥の体育館が本丸に当たります。

当該部分を図面のアップで。二の丸から中城へ渡って来た外城へと推定される城道から、小土塁と堀状溝を迂回させてから3っつに分岐する園路の流れが判ってきました。
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A地点の解説は稲敷市の教育委員会にお勤めされて退職後から応援でいらしてる川村氏です。
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主郭寄りのトレンチでは突き固められた土塁基部が見つかり、川村氏の後方にはまだ掘られてませんが昨年掘られた堀状遺構の続きが検出されてます。
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曲輪の城内側なので続きを調べないと正確には検証出来ませんが、城道から単に庭園側の防御のためのモノか、蔀土塁的な目隠し目的で築かれたのか・・・。

真ん中のトレンチはクランクしていた昨年度公開の園路と、側溝的な溝の続きが検出されてますが城道へはまだ繋がっていません。
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雨天だったので粘土とそこから滲み出た白く濁った水が目立ちます。北へ下がる緩斜面の最も高い部分に近いからか、北側の様に東西の水の流れを意識して土の質を変えてはいない様に見えます。

外城寄りのトレンチは同時期(16世紀四半世紀第四期)の目立つ遺構が無いからかより深く掘り下げられてますが、山とは堀で分断されてるのに水が溜まってしまいます。
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北側の説明会エリア外は埋め戻されずブルーシート養生のままで、全エリアの発掘が終了してから全部開けたら壮観な事でしょう。
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城址公園としての整備の兼ね合いも有る様ですが絶対ドローンで撮影して欲しいです。

C地点は中城南端で茶室跡と思われる遺構の横で想定されてた池遺構です。
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こちらも図面で当該部分をアップで。昨年度までは土塁跡沿いに飛び石で繋いだ茶室らしき建物跡は把握されてました。
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図だと土塁の内側に造られた池に見えますが、ここは1560年頃に造られた南側庭園で、早々に北側の遺構に集約し埋められて土塁が築かれてます。

C地点の解説は川又氏です。立ってらっしゃるのが当時の地表で、遺構保護の為砂の層の上に土を盛って、復元した土塁が内から見ると半分程の高さになってるのが良く解ります。
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茶室址周りでは焼けた壁の跡が見られるほか、遺物が固まってまだ埋まってました。

池の断面も確認され、茶室手前で急角度で立ち上がってるのが見て取れます。瓦器とか瓦質土器とも呼ばれる古代の須恵器的な黒い遺物が見えます。
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池の北西側には半島状に突き出る遺構が見つかりました。短い造営時期ですが、一度深い池を造った後で埋めて浅い池に造り直されてる事が判明しました。埋戻しに使った土中にも不要となってた土器片が大量に混ざっています。
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右奥の土塁沿いの建物跡だけ土塁復元に合せて埋め戻された状態での表示となってます。奥のテントは受付用ではなく地元道無会の方が抹茶を淹れて和菓子と出して下さる呈茶コーナーテントでした。晴れてたら復元したばかりの土塁の上での予定だったみたいでちょっと残念でしたが、とても美味しかったです。

その茶室寄りには昨年のモノよりも残りが悪いのですが、水を落とす小滝遺構が見つかりました。
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残りが悪いのは真壁氏が秋田へ転出する際に抜き取られた為と推定されてますが、残る石は粘土でしっかり据え付けられており当時は水を受ける石敷きがちゃんと有ったと想定されてます。

逆向きから見てます。門の様な2つの石の間が流路でその左奥の石が石敷きですから高さは全然有りません。
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奥に土層が区切られてますが、深い池時期→埋戻し土→浅い池時期→池廃止後の埋戻し土の層だそうです。

池の外側の土塁が復元されてます。昨年度の現説時は左側のテントの手前までしか出来てませんでした。
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中央の手前に出てる隅部が一昨年撮った画像の右から出てる低い土塁の角です。

中城東門も復元され、横の櫓跡も復元されてます。
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この櫓跡は大戦時に火薬庫的に改造されていた場所ですが横の入り口も上面の穴も埋められ、整備後は東屋が建てられる予定みたいです。

続きます。

牛田古墳群発掘調査現地説明会(後編)

昨日に続いて後半は3号墳と2号墳の発掘状況です(実際の見学順とは逆です)。川沿いの台地下で1号墳よりも更に一段低い場所ですが、谷中古墳群の様に水害に遭った痕跡は無いそうです。
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周溝の見つかったもう1基の発掘はまだこれからで番号も振られてませんし、ブルーシートで覆われたままでした。

今日の記事の2基も文挟氏による説明でした。今日出てくる数値も説明会で出たモノ以外は転載・引用はご遠慮下さい。
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3号墳を東より見てます。見学通路の左手に別の古墳の周溝が見つかってますが、どちらも周溝の調査はこれからで幅も深さも判ってません。
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圃場整備事業の予定図を見てませんが群は道路になるとの事で、現調査エリアの先も掘り返したら未発見の埋没古墳がまだ在るかもしれません。

塚状に残っていた墳丘ですが、その南側に前庭まで残っていて、そこから円形に墳丘の裾部が検出され直径約11mの墳丘の円墳である事が判明してます。
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南向きに開口する横穴式石室を開口部側より見てます。全長6m弱で玄室の長さは3.4mになります。
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大きい力が掛かったのか石室全体が歪んで側壁が東側に傾いていて、左壁は浮いて下部で高さがズレてしまってました。左右の間隔もここだけ広く、もしかしたら左壁は元々は奥壁寄りの水溜まりの跡辺りに在ったのかもしれません。

羨道周辺です。側壁が失われてるので石室の一部に見え辛く、後で1号墳に回った際に前庭を見て「ここだけですか?」と言う質問が出てました。
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右上で大きめの石が2つ見える場所が玄門です。左下の同様な場所が羨門だと思われます。

押されてかなり倒れ掛かってる右壁です。3号墳は4基中最も石室の残りが悪く、玄室の側壁下部と敷石しか残っていませんでした。その為配布資料では写真が1枚も載ってません・・・。
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これでよく崩れなかったと思えますが、調査時までは土砂で埋まっていたからでしょう。

奥壁付近は裏込め石まで崩れていました。左上をよく見るとお陰で砂利と粘土の互層が見えてます。
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2号墳を南より見てます。こちらも実際は直径約11mの円墳であった事が判明しました。
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石室を開口部よりアップで見てます。片袖型に見えますが右壁側も袖石が若干せり出す両袖型横穴式石室です。
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玄室の長さが3.5mで羨道が2.3m、羨門から墳端までが2mあまり有って3号墳よりも大分長い石室です。中から鉄鏃1点、鉄片2点が出土しましたが、釘などの木棺の痕跡は見つからず床に直接埋葬したと推定されてます。

墳丘の築き方も3号墳と異なっていて、こちらは子易・中川原遺跡1号墳の様に墳丘内石列が検出されてます。
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奥壁側の残丘にもトレンチが入れられ裏込め石が確認出来ました。
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右壁側玄門付近を見てます。袖が有るのが見て取れます。質問して確認しなかったのですが、しきみ石は敷石の上に置かれて見えます。
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順番で最初に見た事も有って見学者を唸らせてた玄室右壁の模様積みです。
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自分の参加した回は地元の方が多かったみたいですが、もう少し伊勢塚古墳の認知度を上げた方が良い気がしました。

奥壁です。4号墳と異なり前面に模様積みが採用されてます。2~4号墳は東側からの見学で、側壁は持ち送られてる様にみえますが、実際はこの両脇で見える様にほぼ垂直だった事が解ります。
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そのまま移設は難しくても、歴史館の庭とかで接着剤等で補強した上で保存・公開は出来ないものでしょうか・・・?

遺物も一部展示されてました。
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2号墳の残丘頂部から出た直刀です。3号墳からも1振出てますが、盗掘時に価値が無いとされマウンドの上に打ち捨てられたのだろうと推定されてます。
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これは2号墳出土の耳環です。ただ見つかったのが玄門の外で、盗掘時に落とされたと思われこの墳丘のモノとは断定できません。
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展示されていた中で唯一その墳丘のモノに間違い無い4号墳出土の歯です。
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オマケで群南方の道端に積まれていた石材です。
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牛田古墳群発掘調査現地説明会(前編)

JR八高線群馬藤岡駅の南南東およそ4km、神流川に流れる尻無川が合流直前の右岸、神流川による段丘の下に分布する牛田古墳群が圃場整備事業で現存墳丘も削平される事になり発掘調査中で、日曜日に現地説明会が催されました。

調査区域を南より見てます。中央手前が3号墳でその奥は埋もれていた1号墳、右は2号墳で左は4号墳です。どれも南向きの横穴式石室が見えてます。画像左端のブルーシートの下にはもう1基埋没古墳の周溝が見つかってます。県の総覧では全基湮滅表記で4基記載されてますが、もう一ヶ所の古墳址と思われた場所は近世の積み石だったそうです。最終的には7基の円墳が確認されました。
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どれも埴輪を持たない7世紀の古墳時代終末期の築造と推定されてます。群も範囲内である川除屋敷裏遺跡の北端では奈良時代の廃寺が見つかり、画像右側の河川敷側では古墳群やその寺と時期を同じくする集落跡が見つかって調べただけでも205軒の竪穴住居跡が検出されました。

受付テントの設置されていた北東側より見てます。右端の1号墳は墳丘は削平されて現時点のグーグルマップのストリートビューで見える様に農地の段差になっていて今回発見されました。手前のコーンの辺りで後に7号墳の墳丘と石室が見つかってます。 YouTubeのtsulunosチャンネルで紹介されてます。
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周囲は全部畑だったとの説明に飛び入り参加された地元の方が水田だったのでは?と尋ねて否定されてましたが、稲刈りの跡が見えており、1・2号墳の間は畑の奥の水田だった様です。

藤岡市文化財保護課埋蔵文化財係井上係長の挨拶で説明会が始まりました。当日はコロナ対策で基本事前応募制で毎回25人程度で4回、合計100人程度の参加者を募集し遠くは静岡県などからもいらした方もいるそうです。
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実際の説明会は2→3→4→1号墳の順で見学したのですが、画像数の関係で逆に1号墳から紹介します。1号墳のみ斎藤氏による説明です。
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墳丘を南東より見てます。農耕のために石室部分で高さ1m程度しか残ってなかった直径17.8mの円墳です。この墳丘だけやや高い場所に築かれた規模の大きい墳丘で埋葬者の地位的なものが想定されます。
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説明で出た寸法以外は途中経過のメモに記載された数値をお聞きしたものであり、報告書で公表されるものとは異なる可能性も有りますので転載・引用はご遠慮下さい。

北東より見てます。画像手前の北東面は墳裾の下まで掘られてますが、周溝の発掘はまだまだこれからで2月頃まで調査が続く予定だそうです。
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高さは失われていたものの平面形状が良く残っていた全長約9mの横穴式石室を開口部より見てます。
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「ハ」の字に広がる形状が良く残ってる前庭です。左壁側は敷石を退けてその下も調査が入ってます。
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続いて羨道です。側壁の模様積みが残ってる部分が土嚢で護られてます。手前側には積まれてる棒状の川原石の形が見えます。
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模様積みは伊勢塚古墳でも見られますが、藤岡市から美里町辺りまでのエリアで見られる手の込んだ積み方で、今復元してもその後千年も崩れない様に積めるかどうかも怪しいロストテクノロジーではないかとの事でした。

両袖型の玄室です。早くに削平され一時期は上部が空いていて再利用されてたのか積み石などに改変が見られ、床の敷石も少なくなってます。
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下部も他の墳丘と若干積み方に違いが有るようにも見えますが推定築造時期としてはほとんど同じ時期で想定されてます。

奥壁側より見てます。玄門より奥壁側の方が幅の広い楔型の平面をしてます。右壁は押されてかなり傾いていて補強がされてます。
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往時は上端に見えるしきみ石の下端と同じレベルで敷石が施されていたハズです。

奥壁です。各墳丘で積み方の違いは有っても模様積みである中でここだけ乱石積みになってますが、これも一度壊した後で構成に積み直された可能性が有ります。
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左壁の奥壁から50cm程の上部に鉄の棒状の何かが出てます。しっかり刺さっていて簡単に抜けないそうです。
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模様積みは結晶片岩の棒状の川原石を積んでその間に小口が大きくなる石を入れて柄を造ってるのですが上の玄室の画像を見ても分る様に現状残ってる上部の石は右壁側と異なり丸いか短い石ばかりで、この鉄製品も含め後世の積み替えによるモノかもしれません。

墳丘北北東側のトレンチです。土層が解り易い様に白線が入れられてますが説明では触れられませんでました。
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南東側の葺石の根石部分を見てます。この墳丘だけ規模が大きく農耕の邪魔だったのは間違い無いでしょうし、この上面の様に主体部以外の大きな面積を削ったら段差地形の端っこに残った主体部も崩して埋めてしまえとなったのでしょうか・・・。
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斎藤氏が周溝に下りて説明されてます。1108年の浅間山天仁大規模噴火による火山灰が堆積する中に崩れた葺石が混入しておりその頃には墳丘の破壊がもう始まっていたと想定されてます。
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1号墳の南に15m程離れてる4号墳を南東より見てます。破壊と撹乱が激しく、墳形・規模は不明ですが一応円墳と推定されてます。
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トレンチ内を見ても明瞭な墳裾は検出されてません。

2~4号墳は文挟氏が説明してくれました。
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石室を開口部付近より見てます。両袖型と思いますが左壁側が土に押されて変形して歪んでおり袖が見えません。羨道だけ床の敷石が良く残ってます。
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大分狭くなって見えますが玄室はL2m×W1.2m程の広さだそうです。

右壁の模様積みと玄門を見てます。2号墳の次に残りが良さそうに見えますが、安定してなく危険なので一旦発掘を止めてるそうです。
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奥壁です。ここは根石にバスケットボール大の石を並べ低い模様積みの上に緑泥石の大きな鏡石を据えています。
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奥壁裏込め石の北側の断面を見てます。主体部ギリギリまで削られた上に1783年の浅間山天明の大噴火の火山灰が積もってました。盛土と火山灰の違いが良く見えます。
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ただここは浅間山から距離が離れていて火山灰は積もり過ぎであり、江戸時代の住民が邪魔な火山灰を残丘に寄せて積んだものが一体化したものと考えられてます。

墳丘の横に天井石の破片が纏めて置かれてました。人の肩幅程の長さの棒状の緑泥石片岩で壁に使われてる川原石とは異なります。
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発掘途中の写真だと玄門付近にも落ち込んでいたのが写ってました。

続きます。
プロフィール

あんけん

Author:あんけん
多趣味で統一性のないアラフィフです。

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