大洗町磯浜古墳群 その1
本日は大晦日という事で、今日・明日でもっとも素晴らしい初日の出を眺められる古墳群の一つについて書きたいと思います。
大洗町の太平洋を一望できるおでぃば山に分布する磯浜古墳群です。
最初は車塚古墳の北西側で今年発見されたばかりの五本松古墳(仮称)です。訪問時は現地説明会の日ではなかったのでブルーシートが掛かったままになってますが、シートが周溝跡でその奥が墳丘跡になります。
地元での振興のための寄付で調査を行ったそうです。
調査区域の西より。右に聳えるのが車塚古墳です。現状判明してるのは南西向きの前方後円墳(もしくは後方墳)で、南側約21mほどの周溝が検出されていて、埴輪ではなく刷毛目入り壺や底に孔を開けた壺の破片が出た事から姫塚古墳と同じ4世紀初頭の築造と推定されてます。
次はその姫塚古墳です。車塚古墳の北東側に在ります。南西より見てます。残ってるのは後方部だけですがそう見えないのは左側に在った前方部全てと後方部周囲も削られて、しかもその土を手前に盛られたためです。
大きな陰は車塚古墳のものです。
北東側より。こちら側は改変も少なく後方部らしい佇まいを保ってます。元々は右手に前方部が続く西向きの全長30m、高さ約4.4mの前方後方墳でした。
墳頂です。祠の屋根が外れてしまってますが、こういうのは直してあげて良いモノなのか迷ってしまいました。
祠の向きから想像すると盛られた土はここにお参りし易いように盛られたのではないでしょうか?
次は姫塚古墳の南東に在る北北東向きの前方後円墳の坊主山古墳(ぼちゃのやまこふん)です。後円部を南西より見ていて左奥は前方部になります。宅地化の為墳頂平面際近くまで削られてます。私有地内の為未調査となってますが全長約63m、高さ約7m程の規模と推定されてます。
塀の右は地面が高くなってて見えてる高さが墳丘の高さではないようです。
地主の方のお庭より鳥居を潜って上がると後円部墳頂になります。オレンジ色の屋根の向こうは車塚古墳です。
後円部墳頂より東側の張り出しを見下ろしてます。実際の前方部よりも滑らかに続いてて最初こちらが前方部と勘違いしてしまいました。
私有地な事も有りますが実際古い公式分布図ではこちらが前方部と想定されてました。
その張り出しより墳丘東面を見てます。くびれ部から前方部にかけて良く見えますが、以前は竹が生い茂ってたそうで見通せず、航空写真や確認で見に来ただけでは気付かなかったかもしれません。
この面に埴輪片が散在してて、4世紀中葉から後半にかけての築造と推定されてます。
前方部より後円部を見上げてます。高低差のため後円部墳頂が見通せません。
後円部より前方部を見下ろしてます。こちらからもくびれ部しか見えませんが、その両脇が見えるので墳形は掴めます。
地元の方限定なのですが寄付が貯まればここも調査を始められるとの事でした。
続きます。
大洗町の太平洋を一望できるおでぃば山に分布する磯浜古墳群です。
最初は車塚古墳の北西側で今年発見されたばかりの五本松古墳(仮称)です。訪問時は現地説明会の日ではなかったのでブルーシートが掛かったままになってますが、シートが周溝跡でその奥が墳丘跡になります。
地元での振興のための寄付で調査を行ったそうです。
調査区域の西より。右に聳えるのが車塚古墳です。現状判明してるのは南西向きの前方後円墳(もしくは後方墳)で、南側約21mほどの周溝が検出されていて、埴輪ではなく刷毛目入り壺や底に孔を開けた壺の破片が出た事から姫塚古墳と同じ4世紀初頭の築造と推定されてます。
次はその姫塚古墳です。車塚古墳の北東側に在ります。南西より見てます。残ってるのは後方部だけですがそう見えないのは左側に在った前方部全てと後方部周囲も削られて、しかもその土を手前に盛られたためです。
大きな陰は車塚古墳のものです。
北東側より。こちら側は改変も少なく後方部らしい佇まいを保ってます。元々は右手に前方部が続く西向きの全長30m、高さ約4.4mの前方後方墳でした。
墳頂です。祠の屋根が外れてしまってますが、こういうのは直してあげて良いモノなのか迷ってしまいました。
祠の向きから想像すると盛られた土はここにお参りし易いように盛られたのではないでしょうか?
次は姫塚古墳の南東に在る北北東向きの前方後円墳の坊主山古墳(ぼちゃのやまこふん)です。後円部を南西より見ていて左奥は前方部になります。宅地化の為墳頂平面際近くまで削られてます。私有地内の為未調査となってますが全長約63m、高さ約7m程の規模と推定されてます。
塀の右は地面が高くなってて見えてる高さが墳丘の高さではないようです。
地主の方のお庭より鳥居を潜って上がると後円部墳頂になります。オレンジ色の屋根の向こうは車塚古墳です。
後円部墳頂より東側の張り出しを見下ろしてます。実際の前方部よりも滑らかに続いてて最初こちらが前方部と勘違いしてしまいました。
私有地な事も有りますが実際古い公式分布図ではこちらが前方部と想定されてました。
その張り出しより墳丘東面を見てます。くびれ部から前方部にかけて良く見えますが、以前は竹が生い茂ってたそうで見通せず、航空写真や確認で見に来ただけでは気付かなかったかもしれません。
この面に埴輪片が散在してて、4世紀中葉から後半にかけての築造と推定されてます。
前方部より後円部を見上げてます。高低差のため後円部墳頂が見通せません。
後円部より前方部を見下ろしてます。こちらからもくびれ部しか見えませんが、その両脇が見えるので墳形は掴めます。
地元の方限定なのですが寄付が貯まればここも調査を始められるとの事でした。
続きます。
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我孫子市根戸船戸遺跡
なんか今日付けで予約していた筈の河原塚古墳群の記事が既に昨日開いてしまってた様なので超手抜きです(ノ_<)。
根戸船戸古墳群(遺跡)は我孫子駅南西約800mの台地縁に分布していた古墳群で6機が確認されてますが、近年1号墳も削平され西に単独でちょっと離れた2号墳のみが残ります。すぐ近くには円墳13基からなる白山古墳群(消滅)もあった為か市では最近古墳群の名称を使っていないようです。
根戸古墳公園内に保存されてる2号墳です。全長22m、高さ1.6mの規模で、群の他の墳丘と比較すると同じダルマ形だと思いますが、現状は長方形墳の様になってます。
これは後世墳丘手前側(北東側)に直線の溝を掘られた際に一緒に削られていたからの様です。
東より見てます。主軸はほぼ東西を向いてます。
墳頂の様子です。左手に主体部が有る事が確認され、他の墳丘と同じく軟質砂岩の横穴式石室と想定されてますが、確認調査に留め、発掘はされてません。
墳丘南東に設置されてる解説板です。
削平された1号墳は調査もされあびこ電脳考古博物館で調査中の模様などが紹介されてます。
根戸船戸古墳群(遺跡)は我孫子駅南西約800mの台地縁に分布していた古墳群で6機が確認されてますが、近年1号墳も削平され西に単独でちょっと離れた2号墳のみが残ります。すぐ近くには円墳13基からなる白山古墳群(消滅)もあった為か市では最近古墳群の名称を使っていないようです。
根戸古墳公園内に保存されてる2号墳です。全長22m、高さ1.6mの規模で、群の他の墳丘と比較すると同じダルマ形だと思いますが、現状は長方形墳の様になってます。
これは後世墳丘手前側(北東側)に直線の溝を掘られた際に一緒に削られていたからの様です。
東より見てます。主軸はほぼ東西を向いてます。
墳頂の様子です。左手に主体部が有る事が確認され、他の墳丘と同じく軟質砂岩の横穴式石室と想定されてますが、確認調査に留め、発掘はされてません。
墳丘南東に設置されてる解説板です。
削平された1号墳は調査もされあびこ電脳考古博物館で調査中の模様などが紹介されてます。
松戸市河原塚古墳群
松戸市南東部、八柱霊園の西に分布する円墳5基からなる古墳群です。1号墳と4号墳の2基が市の指定史跡になってます。
県道51号線紙敷の交差点から武蔵野線沿いに北へ向かう坂を上がると左手に河原塚遺跡の標柱が見えてきます。すぐ横には字の消えかかった看板も並んでます。
フェンスの中は私有地なのですが地主の方のご好意で開放され、ボーイスカウト等のキャンプなどにも利用されてます。
中に入るとすぐ右手に立派な市の史跡碑が建てられてます。
奥へと進と前方に1号墳が見えてきます。群中で唯一発掘調査されています。
南西側2号墳の近くより。直径26m、高さ4mの規模で群中最大です。
北西より。二ヶ所の主体部が発見され、中から長身の老年男性と幼児の人骨が見つかりました。墳丘は貝塚に築かれたため土壌がアルカリ性を保ち骨が溶けずに残ってました。
また武具や玉類、鍬、土師器などの副葬品も出土してます。
墳頂には石祠と塚山々神碑が縦に並んで文字が隠れてます。このすぐ下に粘土を敷いた上に木棺直葬と思われる第一主体部が見つかりました。
墳丘南東側に解説板が設置されてます。画像では内容は3号墳が未知の頃のままになってますが、最近ようやく五基に修正されました。
1号墳南西に在る2号墳です。直径約10m、高さ約1m程の規模です。
1号墳南東に在る3号墳ですが、分布図抜きでは古墳に全然見えないくらい高さが無いです。裾もどこまでだかハッキリしません。
遺物も調べても不明で、何故ここが古墳と判明したのでしょう・・・?
4号墳と5号墳は河原塚中学校敷地内に在ります。まず校舎に囲まれてる4号墳を校門側より。直径約20m、高さ2.5mの円墳です。
西より。一見もっと高さがある様に見えますが、擁壁部分は中学校建設の為墳丘を残して掘り下げられた旧地表の下になります。
横からは綺麗な墳形に見えたのですが墳頂が火口の様に凹んでるのがビックリです。
河原塚中学校 河原塚古墳の秘密
墳丘北側に標柱が設置されてます。周溝内、つまり擁壁の外側からって事です。
お声掛けした中学校の受付の横に校章とそのいわれが紹介されてます。
校章に古墳を入れる学校は大変珍しいかと思います。
また古墳群についての解説も掲示されてました。校歌にも古墳が入ってるとは思いませんでした。
これも内容が4基時代のままなのですが、注目なのは5号墳が元々3号墳と呼ばれてた事です。普通並び順が変でも新たに加えられた方が大きい数字になって既存の番号を変える事はまず無いからです。
その5号墳を南東より。4号墳から格技場を挟んで北東側の台地縁に在ります。規模は現状直径約12m高さ約1.5mです。
北東より。高さは目立ちませんが周囲はフェンスで囲われ道路側にもはみ出て保護され、中学側も張り出して残されてます。
最後に5号墳越しに4号墳を見てます。間は削られて離れてしまいましたが築造時は同じ台地縁に並んでいたことでしょう。
県道51号線紙敷の交差点から武蔵野線沿いに北へ向かう坂を上がると左手に河原塚遺跡の標柱が見えてきます。すぐ横には字の消えかかった看板も並んでます。
フェンスの中は私有地なのですが地主の方のご好意で開放され、ボーイスカウト等のキャンプなどにも利用されてます。
中に入るとすぐ右手に立派な市の史跡碑が建てられてます。
奥へと進と前方に1号墳が見えてきます。群中で唯一発掘調査されています。
南西側2号墳の近くより。直径26m、高さ4mの規模で群中最大です。
北西より。二ヶ所の主体部が発見され、中から長身の老年男性と幼児の人骨が見つかりました。墳丘は貝塚に築かれたため土壌がアルカリ性を保ち骨が溶けずに残ってました。
また武具や玉類、鍬、土師器などの副葬品も出土してます。
墳頂には石祠と塚山々神碑が縦に並んで文字が隠れてます。このすぐ下に粘土を敷いた上に木棺直葬と思われる第一主体部が見つかりました。
墳丘南東側に解説板が設置されてます。画像では内容は3号墳が未知の頃のままになってますが、最近ようやく五基に修正されました。
1号墳南西に在る2号墳です。直径約10m、高さ約1m程の規模です。
1号墳南東に在る3号墳ですが、分布図抜きでは古墳に全然見えないくらい高さが無いです。裾もどこまでだかハッキリしません。
遺物も調べても不明で、何故ここが古墳と判明したのでしょう・・・?
4号墳と5号墳は河原塚中学校敷地内に在ります。まず校舎に囲まれてる4号墳を校門側より。直径約20m、高さ2.5mの円墳です。
西より。一見もっと高さがある様に見えますが、擁壁部分は中学校建設の為墳丘を残して掘り下げられた旧地表の下になります。
横からは綺麗な墳形に見えたのですが墳頂が火口の様に凹んでるのがビックリです。
河原塚中学校 河原塚古墳の秘密
墳丘北側に標柱が設置されてます。周溝内、つまり擁壁の外側からって事です。
お声掛けした中学校の受付の横に校章とそのいわれが紹介されてます。
校章に古墳を入れる学校は大変珍しいかと思います。
また古墳群についての解説も掲示されてました。校歌にも古墳が入ってるとは思いませんでした。
これも内容が4基時代のままなのですが、注目なのは5号墳が元々3号墳と呼ばれてた事です。普通並び順が変でも新たに加えられた方が大きい数字になって既存の番号を変える事はまず無いからです。
その5号墳を南東より。4号墳から格技場を挟んで北東側の台地縁に在ります。規模は現状直径約12m高さ約1.5mです。
北東より。高さは目立ちませんが周囲はフェンスで囲われ道路側にもはみ出て保護され、中学側も張り出して残されてます。
最後に5号墳越しに4号墳を見てます。間は削られて離れてしまいましたが築造時は同じ台地縁に並んでいたことでしょう。
壬生町塚越古墳群
壬生町の中央、とちぎわんぱく公園の南東側駐車場の外に在る四所神社周辺に分布する古墳群です。
四所神社です。左に1号墳、右奥に2号墳が在ります。
国谷公民館の裏に在る1号墳です。西南西より見てます。主体部の礫が確認されたそうですが埋め戻されてるみたいでした。
反対側東北より。数年前まで直径24mの円墳と思われてましたが、調査の結果一辺約20m、高さ1.6mの方墳と判明しました。
また栃木県内で4例目となる青銅鏡片も発見されてます。
社殿の横より見た2号墳です。直径14.5m、高さ1.6mの円墳です。
北東より。東側は道路で削られてるようで、目では良く見えるのですが写真では薄暗い境内とのコントラストで綺麗に写ってくれません(´・_・`)。
2号墳の北東75mに在る3号墳を南東側、塚越大権現参道入り口前より見上げてます。直径18.5m、高さ2.5mの円墳です。
南より。1m程土が盛られてて神社基壇の様になってます。造りからして墳頂には社殿も建ってたと思われますが荒れ放題です。
墳頂の様子です。破損したままの鳥居同様建物が再建される事も無く石祠が北の縁にポツンと。お参りする人もいないようです。
四所神社です。左に1号墳、右奥に2号墳が在ります。
国谷公民館の裏に在る1号墳です。西南西より見てます。主体部の礫が確認されたそうですが埋め戻されてるみたいでした。
反対側東北より。数年前まで直径24mの円墳と思われてましたが、調査の結果一辺約20m、高さ1.6mの方墳と判明しました。
また栃木県内で4例目となる青銅鏡片も発見されてます。
社殿の横より見た2号墳です。直径14.5m、高さ1.6mの円墳です。
北東より。東側は道路で削られてるようで、目では良く見えるのですが写真では薄暗い境内とのコントラストで綺麗に写ってくれません(´・_・`)。
2号墳の北東75mに在る3号墳を南東側、塚越大権現参道入り口前より見上げてます。直径18.5m、高さ2.5mの円墳です。
南より。1m程土が盛られてて神社基壇の様になってます。造りからして墳頂には社殿も建ってたと思われますが荒れ放題です。
墳頂の様子です。破損したままの鳥居同様建物が再建される事も無く石祠が北の縁にポツンと。お参りする人もいないようです。
高崎市下滝古墳群
元島名将軍塚古墳の南、関越自動車道と井野川に挟まれるエリアに分布する古墳群で、かつては数十基あったとも言われます。
前山古墳以外は発掘調査はされてませんので、主体部の詳細は不明です。
最初は県道13号線からも良く見える御伊勢山古墳です。北東より見てます。直径30m、高さ5mの大きな円墳です。
同じ道沿いで80m北西の下滝3号墳です。北西側より見てて奥に御伊勢山古墳の木立が見えます。
直径約20m、高さ約3mの円墳です。
3号墳で小道に入り西50m程の場所に在る下滝1号墳を北東より見てます。直径15m、高さ2.5mの円墳です。
北側裾部にはこんな石が埋まってます。この南方に在った下滝町甲78号墳は横穴式石室だったそうです。
元の道に戻って3号墳の北北西200mの道沿いに在る前山古墳です。南向きの全長47m、高さ4.3m(調査時)の前方後円墳です。道路などで改変著しく、かなり前からいつ削られるかと心配されてましたがまだ健在でした。
南東より見ていて左手前が前方部、右奥が後円部になります。今は全長も30m程ですが築造時は倍近い規模があったと推定されてます。
南西側より。中央やや奥、後円部西面で横穴式石室が見つかり多くの副葬品が出土してます。
前山古墳の北西側の慈眼寺境内裏手には3基の円墳が在ります。これは一番西の慈眼寺A号墳で、直径20m、高さ約4mの円墳です。
上の航空写真はキャプったのがかなり前なので姿が見えませんが、現在はココだけ木が払われ上空からも良く見えます。
A号墳の南東に在る太子堂の下は直径約15m、高さ1.5mのB号墳です。
本堂の北側に在る慈眼寺C号墳です。直径20m、高さ約2.5mの円墳です。
ゴミも置かれてますが、南側墳頂のこの石は主体部の石材ではないかと思うのですが・・・?
古墳探訪さんによると墓地周辺にも怪しいマウンドが2基在る様です。
慈眼寺から県道24号線を越えて北に140m、中学校の前に在る下滝町淵ノ上13所在古墳です。直径8m、高さ約1mの小円墳です。
群馬県古墳総覧には記載されてない古墳で、市によって地番を名称に使われてます。
墳丘上にゴロゴロしてる石に混じって埴輪片らしき欠片も落ちてます。
前山古墳以外は発掘調査はされてませんので、主体部の詳細は不明です。
最初は県道13号線からも良く見える御伊勢山古墳です。北東より見てます。直径30m、高さ5mの大きな円墳です。
同じ道沿いで80m北西の下滝3号墳です。北西側より見てて奥に御伊勢山古墳の木立が見えます。
直径約20m、高さ約3mの円墳です。
3号墳で小道に入り西50m程の場所に在る下滝1号墳を北東より見てます。直径15m、高さ2.5mの円墳です。
北側裾部にはこんな石が埋まってます。この南方に在った下滝町甲78号墳は横穴式石室だったそうです。
元の道に戻って3号墳の北北西200mの道沿いに在る前山古墳です。南向きの全長47m、高さ4.3m(調査時)の前方後円墳です。道路などで改変著しく、かなり前からいつ削られるかと心配されてましたがまだ健在でした。
南東より見ていて左手前が前方部、右奥が後円部になります。今は全長も30m程ですが築造時は倍近い規模があったと推定されてます。
南西側より。中央やや奥、後円部西面で横穴式石室が見つかり多くの副葬品が出土してます。
前山古墳の北西側の慈眼寺境内裏手には3基の円墳が在ります。これは一番西の慈眼寺A号墳で、直径20m、高さ約4mの円墳です。
上の航空写真はキャプったのがかなり前なので姿が見えませんが、現在はココだけ木が払われ上空からも良く見えます。
A号墳の南東に在る太子堂の下は直径約15m、高さ1.5mのB号墳です。
本堂の北側に在る慈眼寺C号墳です。直径20m、高さ約2.5mの円墳です。
ゴミも置かれてますが、南側墳頂のこの石は主体部の石材ではないかと思うのですが・・・?
古墳探訪さんによると墓地周辺にも怪しいマウンドが2基在る様です。
慈眼寺から県道24号線を越えて北に140m、中学校の前に在る下滝町淵ノ上13所在古墳です。直径8m、高さ約1mの小円墳です。
群馬県古墳総覧には記載されてない古墳で、市によって地番を名称に使われてます。
墳丘上にゴロゴロしてる石に混じって埴輪片らしき欠片も落ちてます。
遠江掛川城
掛川城は室町時代の中頃に今川家重臣朝比奈泰煕が現城跡の北東の天王山龍華院の場所に城を築いたのが始まりですが、現在の地に移り、城主交代を経て山内一豊によって改修されて今残る城の形が完成しました。
掛川駅前の交差点より一本東の道を北に進むと復元された大手門が見えてきます。本来の場所は往来の多い交差点になってしまった為、北に50mずらして復元されてます。
門には発掘された礎石根固め石が展示されてます。
裏には現存では珍しい大手門番所が移築されてます。1859年の大地震後の建築で、大手門復元に合わせて移築されました。
市指定文化財になってます。
番所横より見た城中枢部です。朝一で行ったので門や天守最上階がまだ閉まってます。
門を抜け真っ直ぐ進み、図書館の前を西へ折れると貴重な二の丸御殿に着きます。ここは御殿南東部の玄関で城郭建築では珍しい起破風(むくりはふ)という上方に反り返った屋根を採用してます。
左に進むと御殿南西部の大書院の縁側と庭になります。南洋の木が似合わないので写らない様にすると窮屈な写真になってしまいました。
更に周って御殿北西部の小書院を見てます。やはり日本建築には松が似合います。
この左側には奥書院が建ってましたが失われ、現在は二の丸美術館が建てられてます。
玄関より中に入って広間の奥の御談の間です。
大書院の三の間より次の間・上の間越しに庭の方を向いてます。
そのまま部屋の中を通って御書院上の間です。藩主が政務を執り行う部屋でした。掛け軸の文字は「虎」の異体文字だそうです。
廊下より見上げた復元天守です。手前の新しい石垣は明治時代に真下の十露盤堀を埋めるために腰曲輪を削った場所で地形ごと失われてます。
奥の小書院は藩主の公邸で、囲炉裏の有る居間に当たる部屋も有ります。残る北東部は板張りの部屋ばかりの諸役所スペースで武具や書物・絵図などを展示するエリアになってます。
御殿を出て本丸入口の下まで来ました。
正保の絵図を元に再現された四足門です。発掘調査では門の痕跡は見つからず防備的にも疑問が湧きますが、現在は段差の高い石段と共に正面口の顔となってます。
門を潜ると右手に有田製磁器の模型が置かれてます。右端の三重櫓はちょっと位置がずれてますが太鼓櫓を移築前の姿で再現していると思われます。
模型のある場所は本丸虎口前の丸馬出になっており、深さ8mの三日月堀南側だけ石垣になってるのが発見されました。天守側には埋められた十露盤堀も一部復元されてます。
本丸虎口です。正面が本丸で、右に天守丸への登り口が続いてます。左の石垣の上には現存の太鼓櫓が移築されてます。
天守へ登る途中同じ高さの場所より見た太鼓櫓です。やはり大地震後の建築で元々は三の丸に在ったものを荒和布櫓跡へ移築されてます。
何回かの移築で改変著しく二層になってますが、模型の様に元々は三重櫓だったと考えられてます。
180度振り返って天守丸を見ます。1994年に初の木造復元天守として再建されました。ただ史料にある幕末の姿でなく創建時を想像して高知城天守を参考にしてたり、内部は根拠に乏しいなど復元とは言えないとする考えも根強いです。
解説してくれる方も復元のために天守台を破壊した事は納得いかないと仰ってました。
今度は先程の二の丸御殿全景を見下ろします。玄関と大書院の屋根が一際高いのが分かります。御殿もやはり大地震後の再建で、廃藩後は役場や学校などに利用されたのち整備されて国指定重要文化財となってます。
天守丸は狭いので天守はこれ以上近寄ると、持ってるカメラでは完全な部分写真になってしまいますので天守下門越しに。
天守下門は冠木門で再現されてますが往時は櫓門でしたのでこの様には見えなかったハズです。
天守丸に在る霧吹き井戸です。今川氏真時代に徳川家康が攻めて来た際、霧が吹き出て城を守ったという逸話が伝わります。
天守内部はピンボケか他の来場者が見切れてる画像ばかりなので割愛(爆)し、高欄より見た大手方向です。眺めは良いのですが、周りに遮る物が無いため台風など風雨に晒され傷むので、倒壊前の天守は望楼全体を壁で取り囲んでしまってました。
しかし逆に考えるとよく落雷に合わなかったものだと思います。
この他市内外の寺院に移築された門が3棟残されてます。
掛川駅前の交差点より一本東の道を北に進むと復元された大手門が見えてきます。本来の場所は往来の多い交差点になってしまった為、北に50mずらして復元されてます。
門には発掘された礎石根固め石が展示されてます。
裏には現存では珍しい大手門番所が移築されてます。1859年の大地震後の建築で、大手門復元に合わせて移築されました。
市指定文化財になってます。
番所横より見た城中枢部です。朝一で行ったので門や天守最上階がまだ閉まってます。
門を抜け真っ直ぐ進み、図書館の前を西へ折れると貴重な二の丸御殿に着きます。ここは御殿南東部の玄関で城郭建築では珍しい起破風(むくりはふ)という上方に反り返った屋根を採用してます。
左に進むと御殿南西部の大書院の縁側と庭になります。南洋の木が似合わないので写らない様にすると窮屈な写真になってしまいました。
更に周って御殿北西部の小書院を見てます。やはり日本建築には松が似合います。
この左側には奥書院が建ってましたが失われ、現在は二の丸美術館が建てられてます。
玄関より中に入って広間の奥の御談の間です。
大書院の三の間より次の間・上の間越しに庭の方を向いてます。
そのまま部屋の中を通って御書院上の間です。藩主が政務を執り行う部屋でした。掛け軸の文字は「虎」の異体文字だそうです。
廊下より見上げた復元天守です。手前の新しい石垣は明治時代に真下の十露盤堀を埋めるために腰曲輪を削った場所で地形ごと失われてます。
奥の小書院は藩主の公邸で、囲炉裏の有る居間に当たる部屋も有ります。残る北東部は板張りの部屋ばかりの諸役所スペースで武具や書物・絵図などを展示するエリアになってます。
御殿を出て本丸入口の下まで来ました。
正保の絵図を元に再現された四足門です。発掘調査では門の痕跡は見つからず防備的にも疑問が湧きますが、現在は段差の高い石段と共に正面口の顔となってます。
門を潜ると右手に有田製磁器の模型が置かれてます。右端の三重櫓はちょっと位置がずれてますが太鼓櫓を移築前の姿で再現していると思われます。
模型のある場所は本丸虎口前の丸馬出になっており、深さ8mの三日月堀南側だけ石垣になってるのが発見されました。天守側には埋められた十露盤堀も一部復元されてます。
本丸虎口です。正面が本丸で、右に天守丸への登り口が続いてます。左の石垣の上には現存の太鼓櫓が移築されてます。
天守へ登る途中同じ高さの場所より見た太鼓櫓です。やはり大地震後の建築で元々は三の丸に在ったものを荒和布櫓跡へ移築されてます。
何回かの移築で改変著しく二層になってますが、模型の様に元々は三重櫓だったと考えられてます。
180度振り返って天守丸を見ます。1994年に初の木造復元天守として再建されました。ただ史料にある幕末の姿でなく創建時を想像して高知城天守を参考にしてたり、内部は根拠に乏しいなど復元とは言えないとする考えも根強いです。
解説してくれる方も復元のために天守台を破壊した事は納得いかないと仰ってました。
今度は先程の二の丸御殿全景を見下ろします。玄関と大書院の屋根が一際高いのが分かります。御殿もやはり大地震後の再建で、廃藩後は役場や学校などに利用されたのち整備されて国指定重要文化財となってます。
天守丸は狭いので天守はこれ以上近寄ると、持ってるカメラでは完全な部分写真になってしまいますので天守下門越しに。
天守下門は冠木門で再現されてますが往時は櫓門でしたのでこの様には見えなかったハズです。
天守丸に在る霧吹き井戸です。今川氏真時代に徳川家康が攻めて来た際、霧が吹き出て城を守ったという逸話が伝わります。
天守内部はピンボケか他の来場者が見切れてる画像ばかりなので割愛(爆)し、高欄より見た大手方向です。眺めは良いのですが、周りに遮る物が無いため台風など風雨に晒され傷むので、倒壊前の天守は望楼全体を壁で取り囲んでしまってました。
しかし逆に考えるとよく落雷に合わなかったものだと思います。
この他市内外の寺院に移築された門が3棟残されてます。
行方市宇崎台畑古墳群 白浜台古墳群
茨城鹿行生涯学習センターも入ってるレイクエコーの東に隣接する「茨城県立少年自然の家」の鉄板焼場・屋外炊飯場周囲には円墳5基からなる宇崎台畑古墳群が在ります。
現状古墳らしさを留めてるのは1号墳のみで、他はロープで囲われるなどして立ち入りを制限されてる塚のようになってます。麻生町時代に建てられていた解説板でも2~5号は近世の供養塚ではないかとされてました。
駐車場に面してて目立つ1号墳を北西より見てます。
北東より。直径21m、高さ4mの円墳です。
群中唯一草刈りもされ標柱が設置されてます。
2号墳を北西より見てます。ロープではもっと広く囲われてますが、現状直径約8m、高さは1.5m程度になってます。
背後は鉄板焼場です。
南面に標柱が?と思いきや、角塔婆が建てられてました・・・。以前は標柱も完備だったそうです。合併後色々あるのでしょうが行方市にも文化財整備をお願いしたいと思います。
歩道を越えて南、屋外炊飯場側の3号墳を北西より見てます。2号墳もですが木が密集して根元の土膨れ状です。
東より。こちらからだと直径約5m、高さ約1mのマウンドには見えます。
すぐ隣の4号墳を西より見てます。直径約4m、高さ約1mぐらい。
南より。墳頂の祠に見えるのは多分排水桶のコンクリブロックを放置したものと思われます。
群中最も東の5号墳を北西より見てます。良く見ると根の間に大きい川原石が!
恐らく前の2基も墳丘裾の内側を囲ったのではなく、キャンプに来た人の往来で周りが削られたものと思われますが、ここに至ってはもはや塚にも見えません。
いろりの家の横から橋を北へ渡って自然の家つどいの広場内には白浜台古墳群の2基が保存されてます。
1号墳を研修室側西北西より。右が前方部で左が後円部になります。全長約30m、高さ3.5mの南西向きの前方後円墳です。
前方部より後円部を見てます。後円部脇の標柱は既に無くなってました。
後円部より180度振り返って1mほど低い前方部です。
1号墳の南、台地縁に残る2号墳です。直径10m、高さ1.5mの円墳です。標柱が倒れながらもまだ置きっぱなしになってました。
管理等周辺には古墳ではないマウンドが有り、しかも手前に在るので注意が必要です。
これは梅の広場の前方後円墳状のマウンドです。
これは夕日ヶ丘と呼ばれる正面口のマウンドです。
訪問時には管理棟の職員様がわざわざ案内して下さり、近隣の古墳についてから学校の統合整備などについてまでいろいろ教えて頂きました。ありがとうございました。
現状古墳らしさを留めてるのは1号墳のみで、他はロープで囲われるなどして立ち入りを制限されてる塚のようになってます。麻生町時代に建てられていた解説板でも2~5号は近世の供養塚ではないかとされてました。
駐車場に面してて目立つ1号墳を北西より見てます。
北東より。直径21m、高さ4mの円墳です。
群中唯一草刈りもされ標柱が設置されてます。
2号墳を北西より見てます。ロープではもっと広く囲われてますが、現状直径約8m、高さは1.5m程度になってます。
背後は鉄板焼場です。
南面に標柱が?と思いきや、角塔婆が建てられてました・・・。以前は標柱も完備だったそうです。合併後色々あるのでしょうが行方市にも文化財整備をお願いしたいと思います。
歩道を越えて南、屋外炊飯場側の3号墳を北西より見てます。2号墳もですが木が密集して根元の土膨れ状です。
東より。こちらからだと直径約5m、高さ約1mのマウンドには見えます。
すぐ隣の4号墳を西より見てます。直径約4m、高さ約1mぐらい。
南より。墳頂の祠に見えるのは多分排水桶のコンクリブロックを放置したものと思われます。
群中最も東の5号墳を北西より見てます。良く見ると根の間に大きい川原石が!
恐らく前の2基も墳丘裾の内側を囲ったのではなく、キャンプに来た人の往来で周りが削られたものと思われますが、ここに至ってはもはや塚にも見えません。
いろりの家の横から橋を北へ渡って自然の家つどいの広場内には白浜台古墳群の2基が保存されてます。
1号墳を研修室側西北西より。右が前方部で左が後円部になります。全長約30m、高さ3.5mの南西向きの前方後円墳です。
前方部より後円部を見てます。後円部脇の標柱は既に無くなってました。
後円部より180度振り返って1mほど低い前方部です。
1号墳の南、台地縁に残る2号墳です。直径10m、高さ1.5mの円墳です。標柱が倒れながらもまだ置きっぱなしになってました。
管理等周辺には古墳ではないマウンドが有り、しかも手前に在るので注意が必要です。
これは梅の広場の前方後円墳状のマウンドです。
これは夕日ヶ丘と呼ばれる正面口のマウンドです。
訪問時には管理棟の職員様がわざわざ案内して下さり、近隣の古墳についてから学校の統合整備などについてまでいろいろ教えて頂きました。ありがとうございました。
まさかじゃないけど当たった!
夏に地元の市川市民会館で催された「発掘された関東の遺跡2018」他で配られた関東考古学フェアのスタンプラリーに応募してたのですが、昨年度に続き景品が届いてました\(^o^)/!
応募用紙の埋まり具合はこんな感じでした。来年はコンプめざしますか・・・。
メインの景品はカレンダーとのことでしたが、開封してみますとカレンダーの他に
東京都埋蔵文化財センター 尾張藩上屋敷跡遺跡絵はがきセット
かながわ考古学財団 現地説明会で配布していたシールとクリアファイル
茨城教育財団 現地説明会で配布していたメモ帳
房総のむら 勾玉とアワビの貝殻のアクセサリー
千葉県立中央博物館 クリアファイル
松戸市立博物館 クリアファイル
埼玉県埋蔵文化財調査事業団 はーとんのトートバッグ
千葉県教育振興財団 房総の文化財57号
が同梱されてました!
博物館に無料で置きっぱなしの資料や既に今年幾つも同じモノを貰ってるアイテムはちょっと残念ですが、クリアファイルは引き続き持ってないのが増えて結構嬉しいです(´ω`人)。
ちなみに去年はこうでした。
応募用紙の埋まり具合はこんな感じでした。来年はコンプめざしますか・・・。
メインの景品はカレンダーとのことでしたが、開封してみますとカレンダーの他に
東京都埋蔵文化財センター 尾張藩上屋敷跡遺跡絵はがきセット
かながわ考古学財団 現地説明会で配布していたシールとクリアファイル
茨城教育財団 現地説明会で配布していたメモ帳
房総のむら 勾玉とアワビの貝殻のアクセサリー
千葉県立中央博物館 クリアファイル
松戸市立博物館 クリアファイル
埼玉県埋蔵文化財調査事業団 はーとんのトートバッグ
千葉県教育振興財団 房総の文化財57号
が同梱されてました!
博物館に無料で置きっぱなしの資料や既に今年幾つも同じモノを貰ってるアイテムはちょっと残念ですが、クリアファイルは引き続き持ってないのが増えて結構嬉しいです(´ω`人)。
ちなみに去年はこうでした。
印西市浦部古墳
浦部古墳は印西市北西部、手賀沼(下沼)を見下ろす台地端に在ります。発掘調査等はされてません。
南南西より見てて、右手前が前方部、左奥が後円部になります。全長約28m、高さ約2mの南向きの帆立貝形前方後円墳です。
北西より。墳丘周辺は旧八景に続き新・印西八景に選ばれ、ウッドチップが敷かれ東屋が建てられてます。
前方部より後円部を見てます。主軸線を挟むように二本の木が生えてて特別なゲートのようです。
後円部より小さい前方部を見下ろしてます。この規模の神社で墳丘上に手水鉢まである古墳は珍しいのではないでしょうか。
大六天神社の祠がくびれ部の後円部寄りに鎮座してます。ちょっと昔までは石祠にトタンの屋根を掛けただけでしたが、新しくなって木材もまだ色褪せてませんでした。
祠が無いので開けてる後円部墳頂です。右奥に筑波山も眺められる東屋が見えます。
南南西より見てて、右手前が前方部、左奥が後円部になります。全長約28m、高さ約2mの南向きの帆立貝形前方後円墳です。
北西より。墳丘周辺は旧八景に続き新・印西八景に選ばれ、ウッドチップが敷かれ東屋が建てられてます。
前方部より後円部を見てます。主軸線を挟むように二本の木が生えてて特別なゲートのようです。
後円部より小さい前方部を見下ろしてます。この規模の神社で墳丘上に手水鉢まである古墳は珍しいのではないでしょうか。
大六天神社の祠がくびれ部の後円部寄りに鎮座してます。ちょっと昔までは石祠にトタンの屋根を掛けただけでしたが、新しくなって木材もまだ色褪せてませんでした。
祠が無いので開けてる後円部墳頂です。右奥に筑波山も眺められる東屋が見えます。
水戸市元石川古墳群
水戸市東方、県道235号線を酒門六差路より大洗方面に約2km行った信号を右に折れると次のY字路の一見何も無い場所に元石川古墳群の石碑が建てられてます。しかし訪れるマニアもいないのか情報が全く有りません。
位置的には乗越沢遺跡域内の江東古墳群と小山古墳群に挟まれた場所で、いばらきデジタルまっぷや他の遺跡分布資料にも掲載はされてませんが、石碑横面の解説を読むとかつては10基以上在ったようで近隣の江東古墳群や権現台古墳群と並んで重要な遺跡である旨書かれてます。
最近までは背後は空き地になっててパッと見古墳群址を表してる様にしか見えませんでしたが、何か建てるようで造成が始まるとここを避けるように土を盛って工事が進められ、墳丘頂部らしき様相を呈してきました。
若干ですが高さも歩道よりも少し高くなってるのが分かります。
本当の頂部と思われる位置には南向きで石祠が2つ並んで祀られてます。昭和の頃には細い道路の西に面する墳丘だったみたいですが、東の道路を拡幅され、北側に工業団地へ向かう道路が造られたためにY字路に埋もれて道からは背を向けてしまう形になってしまいましたが。
こちらも情報が全く得られないのですが、江東古墳群よりも北側外に当たる交差点の西の畑の奥にも古墳らしきマウンドが道路から見えます。
後でグーグルマップのストリートビューで見ると左のビニルハウスの反対側にもマウンドが残っているようにも見えます。
訪問時は講演会を聴きに行く途中で時間も無かったので詳細の不明な古墳群ですが、交差点の一基は少なくとも上を覆われたけれども破壊はされていないようですし、大事にされてるとは言えないながら資料からも弾かれてる墳丘が蔑ろにされて削られずに石碑まで建てて保存されてる光景はちょっと不思議な感じがしました。
位置的には乗越沢遺跡域内の江東古墳群と小山古墳群に挟まれた場所で、いばらきデジタルまっぷや他の遺跡分布資料にも掲載はされてませんが、石碑横面の解説を読むとかつては10基以上在ったようで近隣の江東古墳群や権現台古墳群と並んで重要な遺跡である旨書かれてます。
最近までは背後は空き地になっててパッと見古墳群址を表してる様にしか見えませんでしたが、何か建てるようで造成が始まるとここを避けるように土を盛って工事が進められ、墳丘頂部らしき様相を呈してきました。
若干ですが高さも歩道よりも少し高くなってるのが分かります。
本当の頂部と思われる位置には南向きで石祠が2つ並んで祀られてます。昭和の頃には細い道路の西に面する墳丘だったみたいですが、東の道路を拡幅され、北側に工業団地へ向かう道路が造られたためにY字路に埋もれて道からは背を向けてしまう形になってしまいましたが。
こちらも情報が全く得られないのですが、江東古墳群よりも北側外に当たる交差点の西の畑の奥にも古墳らしきマウンドが道路から見えます。
後でグーグルマップのストリートビューで見ると左のビニルハウスの反対側にもマウンドが残っているようにも見えます。
訪問時は講演会を聴きに行く途中で時間も無かったので詳細の不明な古墳群ですが、交差点の一基は少なくとも上を覆われたけれども破壊はされていないようですし、大事にされてるとは言えないながら資料からも弾かれてる墳丘が蔑ろにされて削られずに石碑まで建てて保存されてる光景はちょっと不思議な感じがしました。