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陸奥会津若松城(その2)

本丸内御殿に混じって、東側には櫓とは違う高楼が建ってました。御三階(おさんがい)と呼ばれ、引き上げ式の梯子や隠し部屋などを有し密議などに使われたと考えられてます。現在は基台のみが見られるのみですが、実は戊辰戦争で本堂を焼かれた阿弥陀寺に移築されて残る貴重な建築遺構となってます。

解説板のCG復元図と同じ角度で見た御三階跡です。復元に向けて発掘調査中で、一部ですが石垣内部が見られるのは今だけでしょう。(もっともその「今だけ」がどのくらい続くか先は見えてませんが・・・)
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天守最上階より見下ろした御三階跡です。入口の階段基礎以外ほぼ撤去されてるのが分かります。
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御三階跡の解説板です。この状態なので観光客で関心を寄せる人はほとんどいません。
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城跡の北西およそ1.5kmに在る阿弥陀寺に移築されている御三階を北側正面より見てます。右隣は現本堂です。撮影位置左手前には新選組斎藤一の墓も有ります。
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どう見ても大き過ぎる唐破風を持つ玄関は、元本丸御殿大書院のものです。建物を移築復元したらどうするのでしょう・・・?

裏の墓地より南西の角を見上げてます。外観は三重ですが二階と三階の間に隠し部屋が有って内部4階となってます。
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内部は非公開ですが「鶴ヶ城にあった御三階、内部映像」で各階内部を紹介されてます。


隣に設置されてる解説板です。こちらでは読みが一般的な「ごさんがい」になってます。
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市ではかれこれ10年に渡って本丸への移築復元に動いてますが、改装以前の資料が全然出て来なく実現には至ってません。解体前の天守写真がイタズラで削られてますが、この解説板を更新する予定も無いようです。

既に、同じく城外移されてた茶室麟閣は本丸内に戻されてます。その他の移築建物は火災などで失われてます。
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訪問時は待ち列が門の外にまで並んでたので中に入るのを断念、塀の外の様子しか撮影しませんでした。

桜の咲く時期も綺麗ですが、とにかく観光シーズンには見学に向かないと思いますので、再度リベンジしたいと思います。

おまけ
天守北側の太鼓門枡形の石垣ですが、昇り口の横にハート形の石材が見えるでしょうか?
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陸奥会津若松城(その1)

GWで混雑してるのは明白でしたが、会津盆地まで出向いたので鶴ヶ城とも呼ばれる会津若松城へも行きました。ただ単独行動での見学は出来なかったので、見たい場所の半分も周れていません・・・(´・_・`)。

大手門近くの駐車場を利用しようと思ったら、そのまま大手門へ誘導され北出丸を通り抜けて西出丸駐車場の列に並ばされました。待機中に西大手門土橋より西北角櫓跡を見てます。
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西出丸に駐車して梅坂と呼ばれる土橋を渡りながら天守を望みます。通行してる人物との対比で枡形の大きさが感じられるでしょうか・・・。
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上の画像を突きあたって右に折れた攻め手をここに西中門の櫓門が迎え撃つ構造でした。
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大手門から徒歩で入った人はこの太鼓門跡を抜けて北出丸から直接入って来れます。
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太鼓門跡から見上げた外観復元天守です。中は若松城天守閣郷土博物館となってます。6層の天守に見えますが、5重の天守で一番下は天守台縁を巡る塀です。
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天守台がかなり余裕の有る広さですが、1593年に蒲生氏が建てた7重の天守が加藤氏時代に地震で倒壊し、幕末の姿の5重天守に改めたと伝わります。(解釈には諸説有り)

天守東面です。天守は入場料を払って右下の切妻屋根の張り出しの下から入ります。
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この向きで撮られた解体前の天守の写真が数枚残ってます。ウィキペディアにはその内の一枚が掲載されています。

天守入口から、穴蔵と呼ばれる地階に入ると炎天下でも涼しく、冷暗所を塩蔵として使用していた様子が再現されてます。
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天守内1~3階までは撮影禁止でした。4階は窓が開けられていて走長屋と鉄門、干飯櫓が見えます。
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干飯櫓と門より奥側の南走長屋は2001年に木造で復元されました。

大混雑のまま天守から土産物屋になってる北走長屋(ここだけなら無料)を抜け、木造復元部分に入ります。ここは土足禁止です。
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建物的にはこちらの方が見ものなんですが、天守とうって変わって人がいません・・・。左の部屋は往時は武器庫でした。

走長屋から干飯櫓へ上がる階段です。
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干飯櫓南面、水濠に面する場所には石落としが有り、石を用意して待ち構える様が再現されてますが、実際は武器や熱湯など様々な手段が採られました。
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古写真などを元に復元された干飯櫓です。天守以外で最も大きい櫓で、往時は兵糧の貯蔵に使用されてました。
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右を向いて鉄門越しに天守を見てます。四方を水濠で囲まれた曲輪内は走長屋で本丸と帯廓に隔てられ、鉄門(表門)と天守右奥に在った裏門の二ヶ所が開いてました。
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最も紹介される事が多い南東から見た天守です。天守から鉄門までは昭和35年に鉄筋コンクリートで建てられ、黒瓦を使用してましたが、東日本大震災直前に木造建築に合わせて赤瓦に変えられました。
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続きます。(下に何故か表示される記事の続きはありません)

追記:陸奥白河小峰城(その1)に道場門跡
  :陸奥白河小峰城(その2)に太鼓櫓
   を追記しました。

続きを読む

伊勢原市御領原古墳群(その2)

昨日の記事の分布状況図で、上糟屋郷絵図の範囲の西側にも細く連なる墳丘が記されてますが、こちら側は基数は少ないものの現存している墳丘、移設石室とも個別に命名されてたりします。
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県道612号線をカーブからおよそ700m南下した西側、県道沿いに在る野首(ぬくび)1号墳を南東より見てます。
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ちなみに夏場に来るとこんな感じです。
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南より見てます。上粕谷・子易遺跡脇の1基同様西側との段差に埋まってる様な状態です。
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葺石は見当たりませんが南面中央部に主体部と思しき石材が露出し、幾つかは崩落してしまってます。
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1号墳からおよそ80m程北に戻った西側、三ノ宮児童館前に在る野首2号墳を南東より見てます。
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奥の青いネットを張られてる場所は県道が出来る前の鈴川沿いの旧道で1号墳の脇に続いていた道でした。

西より。封土は失われていて石材だけで塚状に残され、中央にコンクリの基壇を設け石祠を祀ってます。
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北より見てます。石材も恐らく元位置のままではないと思われますが、奥壁にピッタリな石が見えます。
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県道を南下し、東名高速を潜ってすぐ西へ進むとアパートの横に鈴川古墳とも呼ばれる三ノ宮5号墳が在ります。石室開口部側から主体部を見ていますが、右手にブロック塀が見える様に南側の駐車場で大きく抉られた状態で残されてます。
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反対に奥壁と思われる石材側から見てます。左側の小屋が墳丘を削って建てられてます。
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5号墳の在るアパートの北側、高速の下には三ノ宮3号墳の横穴式石室が発見されました。墳形は不明ですが、直径約20mの円墳と推定されてます。
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石室は三ノ宮の比々多神社社殿の北側に、近くの下谷戸遺跡の敷石住居や環状列石と伴に移設されてます。
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無袖型で、奥行6.7m、幅1.4mの玄室です。

右壁側から調査時の記録よりも状態の良い(?)左壁を見てます。木が生えてる左が玄室で、右が羨道、車の前輪が見える辺りから右が甕片の出た前庭になります。前庭まで含むと全長は約12mに達します。
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奥壁付近の様子です。その上に石祠が祀られてます。
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中から武具、馬具、ガラス丸玉、土師器杯、須恵器杯など豊富な遺物が出土し、7世紀前半の築造と推定されてます。

簡単な説明板が設置されてますが、古墳や遺物については何も書かれてません。
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伊勢原市御領原古墳群(その1)

心敬塚古墳や松山古墳から鈴川を挟んで東側の対岸の扇状地は山王原と呼ばれ、かつては70基を超える大古墳群が分布していました。命名されてる墳丘もわずかで、大半が開発や農耕で姿を消し、既に所在不明の古墳が見つかる事も多い場所です。山王原古墳群との棲み分けも良く判らないので、ぺんの古墳探訪記さんなどを参考に周りました。

子易・中川原遺跡の現地説明会のスライドショーで表示された周辺の古墳分布を昭和初期に纏めた図の一部分です。
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帯状に確認されてるマウンドが連なってますが、石倉橋交差点の北側など現存するものが載ってなかったりします。

同説明会で掲示されていた上糟屋郷絵図です。実測図ではないですから歪みが激しいので、現在の主要道路・高速などを書き込みました。この記事に出て来る墳丘を仮称ですが赤で表してます。
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現在の県道と江戸時代や大山街道とその平行の道が移動しているのに対し、交差する道はほぼ昔のままで、県道611号線以東のマウンドはほぼ全滅してしまったようです。

石倉橋交差点から県道612号線に入りすぐ南へカーブする周辺に3基残ってます。
まずはカーブの北側の民家裏に在るAのマウンドを南西より見てます。現存墳丘では最大規模ですが、裾部しか見えません。
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上の絵図でこの北側にも塚が描かれてますが、実際北隣の上粕谷・石倉中遺跡の発掘>で数基の埋没古墳が検出されてます。
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現説でのスライドショーの画面で見難いですが、中央左の木立がAのマウンドで、右手に大小の円墳が見えます。

Aの南南西およそ60mに在るBのマウンドを東より見てます。規模は小さいですが大きい川原石がゴロゴロしてます。
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カーブの内側に在るCのマウンドを西より見てます。江戸時代は墳丘後方のコンテナの向こうを南方向へ道が通っていました。
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南北を削られた墳丘ですが、今は北側(左側)の新築工事が終わって見難くなってるかもしれません。

県道から旧道をおよそ120m進んだ(現在は繋がってません)東側に在るDのマウンドを南東より見てます。
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これも耕作の為か小さくなってますが、主体部のものではないかと思われる石材が露出してます(周囲に石材がゴロゴロしてないので)。

更に旧道を320m程辿った西側、伊勢原山王幼稚園との間に在るEのマウンドを南西より見てます。高さの残るマウンドに大量の石材が露わになってます。
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西より。葺石だとすると上部のものは崩れてしまったのでしょうか・・・?
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幼稚園建て替え時に横穴式石室が出て、御領原古墳(2号墳)と名付けられ双龍環頭大刀などが出土してる様ですが、詳しくは調べられてません。まさか出た石を隣の墳丘の傍らに積んだという事は無いと思いますが、不自然な石積みの状況な気がします。

Eからほぼ真南におよそ270m、山王中学校西側の畑中に在るFのマウンドを北東より見てます。
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南北を削られ、墳丘の高さは低くなってるもののここも大き目の川原石が多数露出しています。

洞昌院前の道と先に辿った大山街道沿いの旧道がぶつかる西側に在るGを南より見てます。画像右端は旧道跡です。
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以前は墳丘上に神社が在ったらしく、手前の石段上に石材と石祠の部材が積まれてます。
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これは上粕屋・子易遺跡の北側、第二東名工区からギリギリ外れたHのマウンドを西より見てます。
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やや北西に離れ、御領原古墳群に入れるのは不適当かもしれませんが、隣の工区で見つかった古墳が公開禁止なので・・・。

緩斜面に築かれて、この辺で良く見る半分埋没状の円墳ですが南側の擁壁は裾部に沿って弧を描いてます。
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この他地主が石材を抜くため破壊し三輪玉など大量の遺物が出た「大塚」と呼ばれた墳丘についても調べようと思いましたが、地元で無いとちょっと難しいみたいです。

続きます。

千葉市東鉄砲塚古墳

幕張本郷駅から北東におよそ580m、幕張台公園から1ブロック隔てた南側の住宅に囲まれた場所に小さい前方後円墳が残されてます。未調査の為規模のみならず方角も不詳とされてます。

墳丘の在る空き地を北側の道路より見てます。空き地自体も道路よりも1m弱高くなってます。
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以前は墳丘右側の切り株も同じくらい茂っていて夏場は観察し難いほどでした。

かつては隣接する道だった北東より見ると、左が後円部で右が前方部に見えます。北向きとして現状全長約15m、高さ約3mの規模です。
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前方部より後円部を見てます。
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後円部で180度振り返って前方部を見てます。マウンドはほぼ真北へ続いています。
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かつてはこの西北西およそ200mの周辺には(西)鉄砲塚古墳をはじめとする5基の円墳が在り鉄砲塚古墳群を形成してましたが(分布域と当古墳間の北にもう1基?)、当古墳1基を残して消滅してます。

旧正宗寺円通三匝堂(さんそうどう)

会津若松市街地北東部の飯盛山中腹には栄螺堂の中でも最も有名な三匝堂が建ってます。長禅寺栄螺堂とは違って六角形の建物ですが一方通行の順路を進むと昇り下りで交差する事無く全体を巡って下りてくるのは同じです。オフィシャルHPも有ります。

通称会津さざえ堂で、1796年に建てられた高さ約16.5m、一辺約3.4mの規模の、まさに巻貝の様に捻られた様な特異な外観のお堂で、国指定重要文化財となってます。
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西面です。昇り下りのスロープが交互に重なる二重螺旋構造で、入口が左、出口が右になってます。
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維新以前の二重螺旋構造の建物では唯一のものですが、近年豊島区の鴨台さざえ堂や大分市の夢かなうぶんぶん堂などがこの堂に倣った構造で建てられてます 。

飯盛山の売店の裏から見下ろすと、庇屋根が螺旋状に廻ってるのが良く解ります。
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現在は銅葺きですが、昭和初期までは杮葺きでした。これは個人で維持するためには致し方無かったのでしょう。

特殊な構造なので各部位の造りも大独特な処理がなされてます。
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飯盛山参道側に置いてある説明板です。2~3分は要らないのでは?
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唐破風を備えた入口です。龍の彫刻の絡み具合が面白いです。
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券売所で拝観料を払ったら土足のまま上がれます。入場券を兼ねた栞のひもは外れ易いので注意が必要です。

直上に福聚海の字の扁額が。ここにも小さい龍の彫刻が付いてます。
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中に入ると正面が堂を建てた郁堂禅師の像で、賽銭箱が置かれてますが、ここも上の方で御賽銭をお供え出来て一ヶ所で回収できるようになってたそうです。
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江戸時代には西国三十三観音像が安置されてましたが、明治の廃仏毀釈で運び出されました。

昇りは右回りです。説明板にある様に階段ではなくスロープになってます。
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補修した板に隙間が有ったり、虫食いで穴だらけの部材が有ったり・・・。

ここは所謂二層目の部分で平面積は狭いものの、昇りスロープと下りスロープで行き来が出来るようにもなってます。
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一番上まで上がりきると、昇りスロープと下りスロープが太鼓橋で結ばれてます。
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スロープ部分と違って、頭上の六角形の天井にも千社札がびっしり貼られてます。
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観音像に代わって置かれてる皇朝二十四孝の絵額の一枚と思われますが、図柄が全然見えないのに、ここだけ御賽銭が山になってました。
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下りスロープは左回りになります。滑り止めの木がツルツルで間隔が狭いので結構歩き難いです。
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何故か出口付近はいたずら書きやキズがいっぱいです。どうしてこんな事ができるのやら・・・(ノ_<)。
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解説板です。これとは別に外国人向けの英字解説板も設置されてます。
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実物観たら作りたくなってしまいましたが、22000円ならもう少しディテールが欲しいかなぁ・・・。
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水戸市千波山古墳群

千波湖の南側の台地上に分布する古墳群です。前方後円墳1基、円墳2基から成ります。

千波公園・少年の森に隣接する千波町千波山児童遊園内、住宅街が食い込んでる西側に保存されてる1号墳を東より見てます。
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北西より見てます。直径約15m、高さ約1.8mの円墳です。
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千波公園・少年の森の散策路沿い、1号墳の北東およそ80mに在る2号墳を東より見てます。
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散策路の反対側を南西より見てます。直径約18m、高さ約2mの円墳です。
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1号墳の南東におよそ200mの湖南児童公園内に保存されてる3号墳を南東より見てます。
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全長約25m、高さ約1.5mの北東向きの前方後円墳で、左が後円部で右が前方部になります。

前方部より後円部を見てます。
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後円部で180度振り返って前方部を見てます。
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一方通行だったり、狭い道だったりで、直接車でアクセスするには不便な場所でした。

伊勢原市心敬塚古墳 松山古墳

伊勢原市西部、子易・中川原遺跡の南の鈴川右岸の丘陵上には左岸と比べて大型の円墳が築かれてます。

高齢者総合支援センター泉心荘の西およそ290m、高取山から東へ延びる尾根の上に心敬塚古墳が在ります。

夏の終わりに行った時にはこんな感じで墳丘の在る山頂がどの辺か把握するぐらいしか出来ませんでしたが・・・
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冬場に訪れて漸く丸い形を感じる事が出来ました。南より見てます。
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西隣に水道局の施設が在って、そのフェンス越しに西より見てます。僧侶で連歌師の心敬がすぐ北に在った浄業寺で没し、この墳丘の傍らに埋葬されて以来心敬塚の名で呼ばれる様になったと伝わります。
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施設への立ち入りを規制するためフェンスが有り、墳丘も上がれなくなってます。
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心敬塚古墳にはかつて数基の陪塚が山頂を囲むように在ったとされます。南東およそ150mの場所に農道から見ると不自然に耕作されない四角い場所が見えます。
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過去の航空写真でも永年変わらずこの状態のようで陪塚の一つと考えられます。

横で農作業をされてたご夫婦に伺い一緒に近づくと、草に埋もれてたり、反対側に隠れてたりして石材と思われる人の頭よりも大きい石が幾つも見えます。
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石をどかすのが大変でそのまま四角く残されてるのかもしれませんが、お話を聞くと上の段の畑にも昔は塚がもう1基残ってたそうで、そちらは完全に壊してしまったそうです。
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でも2ヶ所以外で塚状の場所などは記憶に無いとの事でした。

心敬塚古墳の真南、ほぼ400mに在る松山古墳を南より見てます。
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北西より見てます。現状直径約20m、高さ約5mの円墳です。「相模で一番美しい古墳」にも挙げられてます。
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墳丘に寄って見てますが、全周に渡り削られて裾部が垂直状になっており、周囲を巡る周溝の痕跡らしき土層から元規模は直径約34m、高さ約6mと推定されてます。
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その状況で埋葬施設らしき場所が見当たらないため、主体部は竪穴式で築造も5世紀より前と推定されてます。

川越市仙波古墳群(大仙波古墳群)

喜多院周辺の小仙波古墳群に対し、国道16号線付近の支群を大仙波古墳群とも呼びます。

喜多院より川越街道に出て南下し、国道の手前で左折すると「母塚」とも呼ばれる浅間神社古墳の前に出ます。
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南東より見てます。裾が丸くなってるのが見て取れます。左が正面参道の急階段、右端が裏から登る緩めの階段です。
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直径約38m、高さ約5.8mの円墳ですが、墳頂は削られてやや低くなってる様です。

階段の上に見えるのが富士浅間神社の拝殿です。富士講によって再興された際の建築です。
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本殿は溶岩で包まれた塚の様になってます。
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墳頂は広い平面にされ、社殿の裏には火口も造られてます。柵に括り付けられてる注意書きには噴火口と明記されてました。
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墳丘前に立ってる解説板です。隣の神社についての解説板は良いのですが、東武線建設で消滅した鹿見塚(古墳)の解説もここに設置されてるのは如何なものでしょう。
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実際グーグルマップではここに占肩の鹿見塚としてポイントされ、知らない人が見たら勘違いしてしまうのではないでしょうか・・・。

浅間神社古墳前の道を北東におよそ350m進み橋を渡ると右手に仙波氷川神社が見えてきます。社殿の西隣に氷川神社古墳が在ります。鳥居の横より見てます。
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反対側の南東より見てます。直径約15m、高さ約2mの円墳です。
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墳頂には石尊大権現と彫られた石灯篭が建ってます。
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墳丘裏の階段を下りて、国道を潜ると右手に愛宕神社への矢印が立ってて、愛宕神社古墳へと行けます。

北より見てます。国道からも大きな墳丘が見えます。浅間神社古墳に対して「父塚」とも呼ばれます。古くから両者とも有名だったようで共に市の指定史跡となってます。
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墳丘手前に周溝が確認されてます。

西側参道より見てます。直径約45m、高さ約6mの二段築成の円墳です。
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墳頂の仙波愛宕神社です。
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鳥居の後に設置されてる解説板です。大刀や轡が周囲より発見されており、轡がこの古墳のものだと築造は7世紀まで下る可能性も有ります。
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川越市仙波古墳群(小仙波古墳群) その2

日枝神社古墳跡から喜多院の山門を潜ると前方の本堂の左手に、改変が激しく古墳には見えないですが慈眼堂古墳が目に入ります。

北より見てます。全長約45m、高さ約5.4mの前方後円墳とされますが未調査の為詳細不明。
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墳頂の段差を見ると時計の右が後円部で、左が前方部の印象です。

少し低くなってる前方部(?)に建ってる慈眼堂です。1645年に建てられた国指定重要文化財の建築です。
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おめかしの途中で脚立が無いタイミングで撮影したので、正面が顔みたいになってしまいました。

慈眼堂の裏から一段高くなってる後円部(?)を見てます。
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後円部上(?)は歴代住職の墓域になっており、その法名が刻まれた暦応の古碑などが建てられてます(暦応の古碑自体は中央の大きい碑の裏に並んでて見えてません)。
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墓域を挟んで墳頂西端より慈眼堂を見てます。暦応の古碑の裏面が右手に見えてます。
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慈眼堂古墳から東へ、鐘楼門の脇を抜けて星野旅館の看板まで進むと左前方にこの看板が見えます。
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狭い路地を入ると見えるのが仙芳仙人塚です。撮影位置は近年まで民家が建ってたのか手前側はブロック塀で仕切られてますが、
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反対(東)側より見ると一辺約10mの方形の基壇に載ってるのが分かります。
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解説板も設置されてますが、仙術というか古事記の様な神話的話なので市ではノータッチで、入口に書かれる様に史跡とはしてませんが、文中に有る様に小円墳を改変した塚の可能性も十分有るのではないでしょうか・・・?
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ちなみに慈眼堂古墳は西およそ110m、日枝神社古墳は北西におよそ90mの位置関係になります。

慈眼堂古墳の南に並ぶ仙波東照宮の下も古墳ではないかと思ってしまいます。また川越城はやや北に離れますが、新たに未知の石室が見つかった事からも、残存する土塁の中には古墳転用のモノもある可能性が高まった気もしますが・・・。

続きます。
プロフィール

あんけん

Author:あんけん
多趣味で統一性のないアラフィフです。

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