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下総本佐倉城見学会(その2)

主廓の城山を見学した後は奥ノ山を目指しますが往時の入口は倒木で通行禁止になってるので倉跡側に戻ります。

堀切に戻り、奥ノ山沿いに倉跡最上部に上がってます。建物址が多数に使っており、政治の中心である城山に対してこちらは生活の中心だったと考えられてます。
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確かに守りの中心ではありませんが広い面積を有します。

倉跡から、近代にできた標柱の立てられてる破壊道を通って奥ノ山に入ってます。手前は妙見宮の基壇の址で、奥が堀切上の木橋跡になり、その先に城山が続きます。
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ここは、城山・倉跡に対して宗教的中心の場所であったと考えられてます。

奥に見えてる白い看板の裏は解説板です。矢印のルートでは倒木のため現在は入って来られません。妙見宮は千葉氏の城には必ず見られる施設です。
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現在は南側中腹に移されて妙見神社として残ります。

城の三つの中心を見終えて一番最初の喰い違い虎口に戻り、見学通路を下りずに城塁に沿って左に曲がって往時の登城路である腰曲輪を下ります。

解説板では曲がって東光寺ビョウの真ん中の段差端を下って行くとされてますが、中世城郭研究会さんではⅣ郭沿いに腰曲輪を通って南奥虎口に下ると想定してます。
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確かに腰曲輪は水平の防御ラインではなく、虎口間を結ぶ坂道になってます。
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幅が有りますが平らにしっかり加工されてて、左手の切岸も切り立ってますが、今回の台風・大雨にも崩れる事無く丁寧な工事がされてるものと思われます。

倉跡(左)に沿ってセッテイ山(右)との間の空堀に入ります。入れるのは途中までで、左右から竹が倒れて来ていて通行困難でした。
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右手のセッテイ山への上がり口もツルツルの泥状態で見学は断念です。

ちょっと奥ですが、被災前はこんな感じでした。
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セッテイ山に沿って北から回り、是非見学して欲しかったというセッテイ山虎口を下から見上げてます。虎口内や突き出た城塁の右側に倒木が見えます。恐らく前回の台風の倒木を切った切り株の一部は虎口通路端ごと手前に落っこちてました。
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撮影位置のすぐ下は雨の影響で、補強した土嚢ごと崩壊してます。城外の農道より見てて左上方向が上の画像の位置です。東光寺ビョウではもう一ヶ所崩落して土が流れ出てました。
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湿地へ緩やかに下がる斜面で防御力は考え難いものの、この日の説明では他でも同様に見られる湿地岸の低地曲輪の一つとの事でしたが、他所の法面などはしっかり耐えてる(倒木での土塁損傷は別として)のと比べると、東光寺ビョウは遺構も大して無いですし、かつて存在した寺の墓所のための地形だったのでは?と考えてしまいます。

ちなみに以前訪問した際のセッテイ山虎口の様子です。土塁と平面は若干左手に張り出てる様で、少し下がるとセッテイ山は見通せず右手からも正面の土塁上からも攻撃に晒されます。
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元々狭い通路なのですが、解説板などは残ってるので倒木をどければ通れる様になりそうと思えてしまいますが・・・

解説板の写真で見ると柵が左に曲がった先、解説板の立ってる外側が崩落してるのが分かります。
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幟の絵の上の木が輪切りにされた木に見えます。

ずーっと西へ進んできて東光寺ビョウ西端の堀底道まで来ました。ここだけ見ると、抜けて上の虎口に近付く事は出来そうに見えますが・・・
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そのすぐ先はこの状況で落ちて来た草木で埋まってました・・・。
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今回の見学会は紹介する側も消化不良だそうですが安全第一なので、興味の有る人は自己責任でまた来て入ってみて下さいと繰り返し言われました。でもやっぱり町にこれらの被害にすぐ対応する財政は無いだろうし、全部は戻せないかもしれないので探索の危険度は以前よりも高いままになってしまうかもしれないそうです。
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下総本佐倉城見学会(その1)

中世城郭研究会さんの主催で毎年関東の中世城郭址を巡る見学会が、2015年の小机城、2016年の杉山城、昨年の守谷城に続き26日に酒々井町に在る本家千葉氏の本拠地である本佐倉城で開催されました。

集合場所の京成大佐倉駅の横で受付中の模様です。保険料と資料代500円を払います。この後も電車で参加者が来て、総勢53名の見学者数となり、5班に分けて移動する事になりました。
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城内各所には調査が入った際の写真や侵入路が解り易く図示されてる解説板が設置されてます。
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城域は広く、北西端の物見址の下を抜けた場所から城北面を眺めてます。中央左、樹木が伐採されてる場所に東山虎口が在り、そこを目指してます。
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この様に間隔を開けたりルートを変えて説明を各所で聞きながら周ります。

虎口を抜けて城内側より見てます。虎口は狭く、見通せない様に曲がっていて、更に左右上方から狙われる様になってます。
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虎口外側に設置されてる解説板の写真だと上から見てて把握し易いです。現在は画面左下から短距離で上れる様になってます。
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上の画像左上の土塁に上がって、後の班が解説板を見て虎口を通り抜けるのを見下ろしてます。
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伝わる限りでは、城内にそう多くの兵がいなかったようで、少ない人数でも守り易い工夫がとても良く解ります。

続く東山の稜線上から筑波山を望んでます。印旛沼は干拓され現在は北東と南西に分かれていて、城の北では水路で繋がれてるのですが、前日の大雨で元の汀線付近まで冠水し干拓前の様相を呈してました。
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普段はこんな感じで水は見えません。
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虎口の内側に戻って左手の東山馬場から右奥の倉跡へと続く雛壇状の途中を見てます。左手上方は主廓である城山と呼ばれる曲輪です。
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雰囲気を盛り上げるために矢盾が並べられて、色褪せてたのを新しくされてますが、風雨でなぎ倒されてるものも。

矢盾の後を抜けて城山沿いの堀底道を上ります。右手Ⅳ郭側の縁には柵ではなく塀が建ってた事が判明してます。
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図示されると良く解ります。
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奥ノ山にぶつかり、左90度曲がって、城山と奥ノ山間の堀切と施設の説明を引率の西村さんがしてくれてます。
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往時には坂の頂点は木戸で塞がれ、頭上を木橋が渡ってました。
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堀切を抜け城山沿いに更に左周りで進むと、主廓の虎口に続きます。
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城山虎口です。手前と左に折れた先に門が建ち、その間は正面と左右からの攻撃に晒される枡形になってます。
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虎口の解説板です。ここを含め3ヶ所の出入り口が有ります。
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主廓内と土塁です。土塁の奥は先程の矢盾が並んでた場所です。
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主廓は発掘されており、主殿や来客をもてなす会所、茶室、庭園の跡に護りの矢倉跡が見つかってます。
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城山南東の隅櫓の跡で、この右横に腰曲輪と言うテラス状の細長い防御ラインへ通じる小さい虎口が枡形になってる跡も見られました。
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今は下草が伸びてまだ枯れてませんが、主廓の発掘成果はこの様にプレートで位置表示がされてます。

木橋の址を主廓側より見てます。
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続きます。

石岡市佐自塚古墳

佐自塚古墳は恋瀬川左岸の南西に突き出た低丘陵の上に築かれており、北側の佐久の集落周辺に分布する古墳群に入れられて佐久2号墳とも呼ばれますが、1km程北に離れた円墳1基との間の墳丘が全然確認出来て無いので、群としては再度確認に行けたらと思います。

県道64号線の当古墳と佐久の大杉の案内看板から東へ入り、恋瀬川を渡って一本目の道を右折した突き当り右手に見える、石岡市と合併される前に設置された案内看板横からアクセス出来ます。
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入口から坂を上がって行くと解説板が設置されている後円部の脇に着きます。
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北西より真横から見てます。全長58m、高さ6mの南西向きの前方後円墳で、左が後円部、右が前方部です。
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前方部の途中からだけ陽が当たって雑草が伸びてます。

前方部より後円部を見てます。まるで計画植林された様に主軸線上を空けて左右に綺麗に木々が並んでいます。
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後円部で180度振り返って前方部を見てます。近隣の古墳程ではないものの、台風の影響でか倒木が見られました。
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再度振り返って後円部墳頂の様子です。石祠が祀られてる1.5mほど地中から全長約6mの粘土棺の主体部が発見され、中から刀子、勾玉、玉類、竹櫛、土師器などの副葬品が出土しました。
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棺の外からも壺や高坏などの土師器が出土しており、棺を納めた後の祭祀儀礼に使われたものと推定されてます。

解説板です。遺物などから5世紀中頃の築造と推定されています。
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追記(2020年3月)
再訪したところ、墳丘周囲は遠くから墳丘が見える様に周辺の木や枝を伐採され、前方部の南隣に在るも前回気付けなかった円墳も良く見える様になってました。
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北東より見てます。直径約20m、高さ約2mの規模です。
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南東より、南側の道路から上がって来る古墳探索ロードの脇より見てます。北に分布する佐久古墳群の1基とされてるハズで絵地図でもマウンドは描かれてますが、佐自塚古墳が2号とすると、これが1号墳でしょうか・・・?。
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全然紹介されてないので、見学に来る人は殆ど後円部西側の看板からアクセスしてるのでしょう。

行田市埼玉古墳群(その8)

稲荷山古墳の上より東の水田を見下ろしてます。堤防手前中央から画像の右手外にかけても埼玉8~10号墳、№75古墳の墳丘直径20mクラスの4基の埋没円墳が確認されてます。
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また旧忍川対岸から集落の奥の水田にかけても7基が見つかってます。更に川が左に曲がった先には若王子古墳群が在りました。

さきたま史跡の博物館ロビーに掲示されてる古写真に名称を幾つか入れてみました。愛宕古墳については位置が判らないので・・・。
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手前に名称不明の円墳が1基残ってますが、近くにももう1基在った事が確認されてます。

跡地には痕跡すら残されてませんが、前玉神社境内に若王子古墳石室の石材が2枚、石碑に転用されてます。
1枚は明治神社背後の日露戦役記念碑で高さ約2.5m、幅は2m弱有ります。
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もう1枚はその北側の忠魂碑で、ほぼ同大ですがこちらはもう少し幅が有ります。
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古墳公園から稲荷山古墳北側の土橋を渡った正面に設置されてる長野地区の古墳群についての解説板です。
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一見実線の墳丘は残ってる様に思えますが、実際は3基が残るのみとなってます。

稲荷山古墳の北北東およそ120mに在る白山愛宕山古墳を南西より見てます。直径約27mの墳丘の中心1/4程が残ります。
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円筒埴輪や人物埴輪が出土し、墳丘を囲っていたと思われ、南西部撮影位置後方で周堤と墳丘が繋がっており南側から土師器や須恵器がまとまって出土してます。

東より見てます。周溝が検出されてて、それを含めた直径は約40mに達します。周溝に堆積した榛名山の火山灰から5世紀後半の築造と推定されています。
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暗い夜道で車両がぶつからない様に反射板が東西に設置されてます。

周溝跡の南に設置されてるので、墳丘からは離れている解説板です。
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設置時には在った愛宕神社は愛宕山古墳と同様に無くなってます。

白山愛宕山古墳の北東およそ35mに在る神明山古墳を稲荷山古墳の後円部より見てます。近年墳丘の西から南東にかけて太陽光パネルが設置されて、近くからは見辛くなってしまいました。
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西より見てます。直径約15m、高さ約3mほどが残ってますが、元の直径は約44.4mと推定されてます。
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未調査ですが見つかってる埴輪片から6世紀中頃の築造と考えられてます。

北より見てます。太陽光パネルと反対側は墳形があまり良く見えません。
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現時点ではグーグルマップのストリートビューでは太陽光パネル設置前の姿を見られます。

神明山古墳の北およそ130mに在る白山古墳を西より見てます。
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北より見てます。直径約50m、高さ約5.7mの円墳です
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墳丘上西側中腹に南向きで祀られている白山姫神社です。
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次の奥壁とされる石材は板石ですが、人頭大の安山岩も使われてたと見られるとのことで、右手前に置かれてる石も石室材なのでしょうか?

墳丘北東側墳頂近くに露出してる石室の奥壁と思われる緑泥片岩です。
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解説板です。
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南西より見てます。手前が白山2号墳の址で、道路下からは右手へ続く外径約40m、内径約30mと推定される円墳の周溝とブリッジが見つかり、人物埴輪、馬形埴輪、器財埴輪などが出土していて、6世紀末の築造と推定されています。
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見つかった人物埴輪は東京北区の赤羽台4号墳で出土したものとソックリ(地区の解説板の写真右2体)で、関係性が何か有ったのでしょうか・・・?

上の画像墳丘左側の畦道を170m程進むとこんなマウンドも有ります。昔は上に木も生えてて耕作の不要土を盛ったモノではないハズですが・・・?
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行田市埼玉古墳群(その7)

浅間塚古墳は鉄砲山古墳のすぐ東に位置しますが、前玉神社の境内となってるので史跡指定範囲には含まれてません。

北東より見てます。神社建立によって特にこちら側の改変が激しいですが、元は墳丘の直径約50m、高さ約8.5mの円墳で、幅約10mの周溝が全周し、それを含めた総直径は約73mに達します。
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石段までが墳丘になり、その手前から左の池にかけてが周溝でした。

墳頂に前玉神社が建ち、北面を削って裾近くに浅間神社が建てられていますが、写ってる範囲は全て元墳丘内になります。
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西から南にかけては比較的旧状を残しますが、夏場は深い藪で、肉眼では墳丘が見えるものの撮影は難しいです。
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墳丘東側中腹より、墳頂を見上げています。見辛いですが、丸い左斜面に対し、右側北面が直線状に削られてるのが見て取れます。
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振り返って東側周溝跡には池が造られ、パッと見一部が残ってる様に見えてしまいますが、実際は中島から右手の幟にかけてが周溝外縁で、右手前側は墳丘南東にかけて(恐らく削った)土を盛られて変形しています。
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墳頂の前玉神社社殿です。県名の発祥となったとも言われ、8世紀の記述には既に「さきたま」の名が出て来るそうです。
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この先真っ直ぐおよそ140mには鉄砲山古墳の石室が在ります。

墳丘北側に設置されてる解説板です。
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稲荷山古墳の周囲には、耕作で消滅したものの同時期に築かれたと推定される小円墳が北東や二子山古墳との間などに多数見つかっており、南側の3基は円形の盛り土に植栽されて古墳址を表してます。


天祥寺北隣に在る天王山古墳(埼玉1号墳)址を北西より見てます。民家が建っていたので四角い基壇状ですが元は外径約42m、内径約27mの周溝を持つ円墳です。
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民家取り壊し後に植樹されましたが、良く見ると北側中央に木製の階段の残骸が残ってます。

南側フェンスの近くには文字の消えた標柱が傾いてます。墳丘下部が残ってるのか、全く新しい盛土なのか・・・?
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稲荷山古墳の南南西およそ40mに在る梅塚古墳(埼玉2号墳)址を南より見てます。右端に稲荷山古墳、左端に丸墓山古墳が見えます。
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外径29.5m、内径23.5mの周溝が検出されてます。円墳址の中で標柱が唯一無事な状態を保ってます。

梅塚古墳址のすぐ南南西の埼玉3号墳址を北東より見てます。外径14.5m、内径12.5mの周溝が検出されてます。
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3号墳址のすぐ南東に在る埼玉4号墳址を北東より見てます。外径21.5m、内径17.5mの周溝が検出されてます。
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大雨で周濠が出来てます。

半円の周溝外側の迂回路は梅塚古墳址の南東およそ40mの埼玉5号墳址です。以下3基は植栽で表現せず、低いマウンドに標柱を立てたり、舗装路を迂回させるにとどまります。
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右奥は埼玉7号墳址で同様に迂回路が設けられているのですが、5号墳址ともども稲荷山古墳と二子山古墳を真っ直ぐ繋ぐ園路を(古墳址部分は未舗装ですが)通されてしまいました。

5号墳址を南東より見てます。外径32.5m、内径26mの周溝が検出されてます。
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見学者の下半身が見えない事で低いマウンドに復されてるのが見て取れます。

7号墳址を北東より見てます。迂回路は周溝の外側で、中央左側の低木の植栽付近が墳丘中心です。
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外径27m、内径22mの周溝が検出されてます。

標柱はもう読めません・・・。
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5・7号墳2基の東側およそ25mに在る6号墳址です。ここも肉眼でないと厳しいほどの低いマウンドで復されていて、背後のベンチの脚が隠れてます。標柱は文字盤も落ちてしまってます。
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外径27m、内径22.5mの周溝が検出されてます。画像右端、木の向こうにボッチ山古墳の北側半分が写ってます。

もう1回続きます。

行田市埼玉古墳群(その6)

鉄砲山古墳のすぐ南西に在る奥の山古墳を西側外堀内より見てて、左が後円部で、右が前方部になります。
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草に覆われて見難いですが後円部手前に造出しが有り、大変珍しい小さな壺が幾つもくっついてる子持ち壺が出土してます。(11月14日までさきたま史跡の博物館にて展示中)

少し南から見ると鉄砲山古墳が重なって見えます。四角形の二重の周溝・周堤が有りますが鉄砲山古墳の外堤を避けて北側は斜めに歪んでいます。
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墳長66.4m、高さ18.8mの規模で、将軍山古墳と同じ方位を向いて築かれているので、この2基は直線状に並んではいませんが、地元の郷土史家の清水雪翁は実地調査に基づき、この2基を繋いで石田堤の一部としたと考証してます。

足元に目を向けるとそこには内堀の南西隅をブロック表示してあります。
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東側外堤の上より見てます。くびれ部が草で茂っていて、更に前方部と後円部の高さが同じな事もあって不格好に見えます。
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二子山古墳と同様に墳丘の侵食が起こり、外堀も水濠化されてた内堀も埋め立てて芝を張ってあります。

瓦塚古墳や県道北側の墳丘と同じ仕様の解説板です。このすぐ右には中堤外縁のブロック表示が有ります。
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出土した円筒埴輪、形象埴輪、須恵器などから6世紀中頃の築造と推定されています。

奥の山古墳のすぐ南東に並んで築かれてる中の山古墳を前方部南西隅より見てます。
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ここも二重の周溝が東西と北側で確認されてますが整備はされていません。

前方部南側に立ってる古い文部省の制札柱です。鉄砲山古墳の北側にも立ってました。
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北西より真横から見てます。墳長79m、高さ5.2mで子午線に対して群中最も東西に傾いてる南西向き前方後円墳です。
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須恵器や、同じ工法の埴輪壺が出土していて、6世紀末から7世紀にかけての築造と推定されています。

ここも赤くて見辛い解説板です。墳丘東側は市道が通りその先は私有地なので何も描かれてませんが、外堀が戸場口山古墳の外堀で切られてる事が判明してます。
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図の位置の他に市道の東側で2ヶ所トレンチを切っただけなので、造出しの有無は不明です。

その戸場口山古墳は大正7年に土取りのため削平された群中唯一の方墳で、一辺約42mの規模でした。跡地は民家になってますが、古墳址見学の撮影を嫌ってか、(それともサービスでか?)ほぼ墳丘の大きさで四角く植樹されてます。
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画像下方を左右に中の山古墳の中堤が横切っていて、右端の方で戸場口山古墳の外堀北西の角が食い込んでいました。

跡地を南西より見てます。この道路は墳丘南面に接して真っ直ぐ通っていて、電柱の辺りが墳丘南西隅で、手前が内堀でした。
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須恵器甕が出土して7世紀前半の築造と推定されていますが、古くには石棺と大刀が出てるとも伝わります。

戸場口山古墳址の工場を挟んで南におよそ200mに在る常世岐姫神社は小さいマウンドに載っており、今でこそ鳥居の基壇が四角付け足されてますが明治時代の迅速測図では参道側が少し突き出た円墳状に描かれてます。
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南側は建物で削られてるものの裏はこの様に今でも円墳状のままです。
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周囲は古墳時代の遺跡でもあり渡柳古墳群の1基の可能性は高い気がしますが・・・?

続きます。

行田市埼玉古墳群(その5)

今度は県道77号線南側に保存されてる墳丘を周ります。
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二子山古墳の南西およそ100mに在る瓦塚古墳を南より見てます。主に墳丘の東側などが1/4~5ほど削られてドレッシングの容器状でしたが復元されてます。
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前方部端は剣菱形と呼ばれる中央がやや突き出た形になってて、西側半分がここからは見えてません。

南東より見てて右が後円部で、左が前方部になります。墳長73.4m、高さ4.8mの規模で稲荷山古墳と同じ向きです。
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ここも前方部と後円部がほぼ同じ高さになってます。

反対側の西より見てます。こちら側にはやはり造出しなどの施設が有って、見学し易い様に整備されてます。
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左端後円部北端は史跡指定地外のため復元されておらず、逆に削られてる様に見えます。

各部位に名称表示されてて(北以外三面)、中央がブリッジ、その右が外堀、ブリッジの奥が中堤で、その奥は内堀と彫られてます。
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造出しも再現されてますが名称表示の石は草陰に埋もれて見えてません。撮影場所付近で形象埴輪がまとまって多数出土しており、祭事の場としてそれらの配置が考証されてます。
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それら遺物などから6世紀中頃の築造と推定されています。

墳丘南西と北西両方に解説板が設置されてます。
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瓦塚古墳の南東およそ100mに在る鉄砲山古墳を南より見てます。墳長107.6m、高さ9.5mで稲荷山古墳よりもやや南北向きで築かれてます。忍藩の砲術演習所だった事でこの名で呼ばれますが、御風呂山古墳とも呼ばれました。
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南・東側は二重の、西側には三重の周溝が検出されており、前方部側の広い台形だと推定されてます。

東より見てます。浅間塚古墳北側の浅間神社と明治神社の間を抜けて来るとここに出ます。
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後円部左側白い杭の近くに横穴式石室が有り、羨道部分のみ発掘されて、利根川の角閃石安山岩を加工して積み上げた上に長瀞付近から持ってきた天井石を載せていた事が判明してます。石室前の周溝からは土師器高坏が多数出土してます。

西より見てます。後円部西側は県道沿いの石屋さんの私有地で墓石や庭石などが置かれてます。 
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くびれ部西側の造出しです。中堤北西隅にも造出しが有り、外側二重の周溝が外側に折れてます。
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ここは解説板が鉄板に赤い塗装の上印刷されてるので、錆・汚れ・退色でちょっと読み辛くなってます。
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土師器の他にも円筒埴輪・形象埴輪・須恵器甕などが出土しており、6世紀後半の築造と推定されています。

続きます。

行田市埼玉古墳群(その4)

将軍山古墳の周溝西側にボッチ山古墳が在ります。二子山古墳東側の市道入口にもこんな道標が・・・。
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ボッチ山古墳を南より見てます。小円墳群調査時点でもここは農地だったので実測されず、現状直径約7~8mで高さはあまり残っていませんが最初の遺跡指定範囲にも含められ、官報の告知の分布図でもしっかり記されてます。
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ウィキペディアでは埼玉3号墳とされてますが、3号墳の南東およそ120mで、画像左側の植樹の反対側に埼玉6号墳が在りました。

北東より見てます。世界遺産を目指す整備に伴う調査でトレンチを2ヶ所設定したそうです。規模からも円墳で間違い無いと思われますが、全容は調査されておらず位置が確定したのみの様です。
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パイロンは埋め戻し場所の保護のためでしょうか?右奥、芝生の端辺りが埼玉7号墳址で、左手の駐車場には無名の円墳が在りました。

公園の中央に位置し、県内最大の前方後円墳である二子山古墳を北より見てます。ガイドさんは全長165mの関東最大の前方後円墳ですとか言っちゃってますが・・・良いのでしょうか?
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周堤(中堤)は手前に来てましたが、道路にかかるので丸く曲げて再現されています。

東面を真横から見てます。墳長132.2m、高さ13.7mの規模です。稲荷山古墳に対して、向きもほぼ同じで平面形は一割強大きい相似形ですが、左側前方部の方が後円部よりも2m程高くなってます。
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内堀は昭和中期になって水濠化されましたが中央くびれ部で墳丘崩壊が発生し、埋め戻されました。

南西より見てます。ここだけ整備で盛り直されたのではないオリジナルの中堤盛土が残っています。保護のため植樹して遊歩道を迂回させてます(画像右端付近)。
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ここも西側くびれ部(右奥)と中堤(手前)に造出しが有ります。くびれ部の方は2段に築かれていて埴輪片や須恵器・土師器などが出土してます。昨冬と去年に発掘調査と現地説明会が行われ、ぺんの古墳探訪記さんと関東の古墳&史跡探訪さんが報告されてます。
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撮影位置背後では天祥寺裏古墳の周溝の一部が検出されてますが、全体的ではないので、規模・墳形とも意見が分かれてます。

外堀西側に設置されてる解説板です。外堀が造出しを避けて湾曲して推定されてますが、実際は直線状で、造出し付近だけ出っ張っていた可能性も有るそうです。
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博物館などで売られてるガイドブックさきたまでは改訂前のものでも既にそちらの説で図解していて、方形造出しと周溝の稲荷山→台形にした二子山→周溝を略した将軍山、という変遷として解説されてます。

二子山古墳の西に並ぶ天祥寺南側に在る愛宕山古墳を南東より見てて、右が後円部で左が前方部になります。
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全長54.7m、高さ3.7mで前方部と後円部はほぼ同じ高さの、前方後円墳群の中では最も小さい規模です。

反対側北西より見てます。墳丘西側は範囲調査もされておらず、他の墳丘の様な造出しは未確認となってます。
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稲荷山古墳と将軍山古墳の中間の方位を向いてます。

個別の解説板です。円筒埴輪に人物埴輪、須恵器片が出土しており、6世紀中盤から後半にかけての時期の築造と推定されています。
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かつては墳丘上に愛宕山神社が鎮座していて、現在も前方部上には石仏が並んでいます。

続きます。

行田市埼玉古墳群(その3)

墳丘に上がれる2基に続いて、次は中に入れる将軍山古墳です。

公園の東端に在り、西から向かう途中には将軍山古墳展示館として看板が出ています。
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看板背後の駐車場内で無名の円墳が検出されてます。

中を見る前に道路から外れて北西より真横から見てます。墳長90m、高さ現状9.4mの南西向きの前方後円墳で、前方部の方が後円部よりも1m程高くなってますが正確な元の数値は不明とされてます。
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稲荷山古墳と同じ南西向きでも主軸線は富士山を向いておらず、前方部の軸線上遥か先には伊勢神宮が在ります。

北より見てます。内堀には降ったばかりの大雨で水が貯まって水濠となっています。
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埴輪が並べられていた事が判っており、墳丘整備の際にここだけレプリカ埴輪列で再現しています。

殆ど誰も訪れない西側外堤上に設置されてる解説パネルです。台形の周堤と周溝を持ち、やはり墳丘と中堤との西側2ヶ所に造出しが有ります。
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右手に見えるのが細いブリッジで、奥の一段高い場所が中堤の造出しです。
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くびれ部の造出しは削平されてましたが、発掘成果を元に綺麗に復元されています。
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墳丘は円筒埴輪数本おきに朝顔形円筒埴輪が並べられてますが、造出しにだけは靫形埴輪も並べられてます。
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墳丘南西側道路沿いに設置されてる他の墳丘と同形式の解説板です。
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墳丘東側半分程と、前方部南西部は削られて建物が並んでたため、後円部内に復元横穴式石室を展示する世にも珍しい墳丘内博物館として活用されました。
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館内に貼られている解説で、都合3種類の解説が各所でされてる事になります。
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横に馬の写真がくっついてますが、前方部の土層の剥ぎ取り展示です。
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入口正面にも石室に使われた房州石と土層がライトアップされてますが、こちらの暗い方が大きいです。

馬具など馬に関する出土が有るので、解説パネルで図示されてます。ここには描かれてませんが馬冑と言う日本で3例しか発見されてない馬の甲冑の一部が出土してます。
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展示されてる発掘状況図にざっとですが着色して見ました。墳丘脇に現市道が出来て大きく削られてるのが分かります。
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かろうじて主軸線付近が残り、後円部に横穴式石室、前方部に木棺直葬の主体部2ヶ所(赤い部分)が見つかりました。前方部の墓壙からは数は多いもののガラス玉ばかりが出土してます。

埋葬状況を再現した石室展示です。意義は感じますが、100%模型で墳丘の中にわざわざ造る意味があまり無い様に思えてしまいます。
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墳丘欠損部分に墳丘の形に合わせた展示室を建てて、模型とは別に補強した石室を窓越しでも見学出来た方が良かったかも。

副葬品配置図と石室についての解説です。
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続きます。

行田市埼玉古墳群(その2)

丸墓山古墳の東隣に在る稲荷山古墳を北より見てます。国宝の金錯銘(きんさくめい)鉄剣が出土した事で有名です。
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ここも丸墓山古墳と同様に墳丘に上がれます。

砂利で再現されてる周溝の北側に設置されてる埋葬施設についての解説板です。墳頂にも新たに個別に設けられてるので、これは整備前の古くから在るモノでしょうか。
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北西より真横から見てます。墳長120m、高さ10.4mの南西向きの前方後円墳で、主軸方向の先には富士山が在ります。
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西側くびれ部に造出しを持ちます。左奥に田んぼアートを楽しめる古代蓮の里の展望タワーが見えてます。

南西より見てます。端整な姿ですが、実は前方部は昭和12年に沼地干拓の土取りで丸々削平され、今世紀になってやっと復元されました。
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埼玉古墳軍さんが貴重な復元工事の模様を紹介されてます。

前方部より後円部を見てます。復元前は階段が西側くびれ部に下りてて、そこから斜めに前方部跡を通って二子山古墳方向への道になってました。
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くびれ部より復元された造り出しを見下ろしてます。その右奥の雑草が刈られてる場所は中堤に設けられた珍しい二重目の造出しです。
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復元前は後円部に造出しの一部が出っ張っていて、いびつな帆立貝形前方後円墳の様に見えてました。

後円部で180度振り返って段築も再現された前方部を見てます。左手東側園外は買収されずに墳丘のすぐ近くが農地となったままです。
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後円部墳頂です。主体部が2ヶ所見つかってますが、この通りどちらも中心を避けているので、本来の「主」は別に埋葬されてる可能性も考えられています。
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前方部寄りに主軸線と直交する粘土槨の主体部と
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西側で粘土槨の端に約100度の角度で接する礫槨の主体部が見つかってます。
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奥に隣の丸墓山古墳が見えます。

粘土槨の解説パネルです。埋め戻され平面形状がブロックで表されてます。
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礫槨と、出土した副葬品の解説パネルです。100を越える文字が見つかった金錯銘鉄剣をはじめ貴重な副葬品の一部は公園内の埼玉県立さきたま史跡の博物館で展示されてます。
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訪問時は小学校のウォークラリーのほかにどこぞの社会人の研修見学も行われてて、金錯銘鉄剣のペーパーレプリカが飛ぶように売れてて、自分も釣られて買ってしまいました・・・。

礫槨は埋め戻しの上に、かつては立体形状で復元されてましたが、現在は副葬品配置を表記したパネル展示に変わってます。
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これらの豊富な副葬品などから5世紀後半の築造と推定され、大型古墳群の中で最初に築かれたと考えられています。

前方部南側に設置されてる解説板です。大山古墳のほぼ1/4の相似形の墳丘ですが、二重の周堤は長方形という変わった造りをしてます。
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続きます。
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あんけん

Author:あんけん
多趣味で統一性のないアラフィフです。

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