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富士市横沢古墳

東名高速富士インターチェンジと新東名高速新富士インターチェンジを結ぶ国道139号線/西富士道路建設の際現在移築保存されてる広見公園の北西で見つかった円墳です。

広見公園の正面階段を上がってすぐ、入口広場から右手に逸れる遊歩道へ入ると東側斜面下に移築された綺麗な円墳が見えて来ます。
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裾部にだけ葺石が見られ、これはこの地方でも唯一の特徴とされてますが、最近はこの様に全体に施してないを葺石を外護列石とも呼ぶことが多いと思います。

南東より見てます。発見時は西側を道路で削られ、石室も天井石が崩落していたので高さは推定ですが、直径16m、高さ3.5mの規模で復元されてます。
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周辺の墳丘と比べて大型で、多くの副葬品が出土したため発見の4年後に現在地に移築し(一部推定)復元され保存されてます。

石室は南向きに開けたままにされて見学出来ますが、中に入る事は出来ません。
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格子戸の隙間から石室内を見てます。床下は竪穴式に掘り込まれていて、実円寺西1号墳の様に玄室は20cm程の段差で低くなってました。
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L8.3×W2.3m×H推定2.5mの広さの無袖型横穴式石室で中から人骨のほか大刀・馬具・金銅製鈴など副葬品が多く出土し、6世紀後半の築造と推定されてます。

墳丘東隣に設置されてる解説板です。
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土浦市常名(ひたな)天神山古墳

常磐道土浦北インターチェンジの南南西およそ1.9km、桜川を南に望む台地縁に築かれた前方後円墳群の1基です。西隣に在った全長74mの瓢箪塚古墳は土取りで地盤ごと削られ消滅してます。
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写す向きを間違えてますが、この市指定史跡碑の左面にも簡単な説明が有ります。

南西より墳丘横のお参り用駐車スペースより見てます。左端の小さいマウンドは実測図でも描かれてますが、陪塚ではない様です。
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南より見てて、右が後円部で左が前方部です。現状西向きで墳長約70m、高さ6.87mの規模です。
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前方部が西から南側にかけて削られており、元は90mの長さだったと推定されてます(上の史跡碑)。

くびれ部には小社が並び、前方部は上面も削られていて中心部だけが独立した塚の様になってます。
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前方部より後円部を見てます。主体部は未調査ですが、墳形などから5世紀前半までの築造と推定されてます。
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北側裾部に下りると、南面に対し比較的良好に墳形を保ってるのが分かります。
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後円部で180度振り返って前方部を見下ろしてます。頂部でも前方部は後円部よりも2.5m以上低くなってます。
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後円部墳頂に鎮座する常名神社社殿です。
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史跡碑と共に後円部南西側に設置されてる解説板です。
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解説板に併記されてる前方部墳長の宝篋印塔です。こちらも市の史跡です。
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基礎部を失ったまま再度建てられてますがそれでも高さ1.35mを有し、市内で最も古い安土桃山時代のものと推定されてます。

三島市夏梅木古墳群(後編)

6号墳の北西に25mほど離れた2号墳を南南西より見てます。崩落により規模は不明ですが、元々山寄式で築かれたと思われ、斜面下の西側に開口する横穴式石室を持ちます。宅地開発時の調査報告では5号墳と2基のみ手付かずで残ってる古墳と書かれてます。
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6号墳横から農道に入って見た墳丘背面です。小さな解説板が立ち、左奥に石室の石材が露出してます。
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横穴式石室の残骸です。右側が斜面下で、元はL3m×W1m×H1.2mの規模が確認されてますが、石室上部や羨道側は崩落しています。
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大刀・刀子・耳環・鉄鏃・玉類が出土し、他の墳丘と比較して7世紀初頭の築造が考えられてます。

2号墳の解説板のアップです。著名なエピソードでも現状を見たら・・・。
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未調査ながら2号墳と共に現存扱いされてる5号墳を南西側より見てます。横穴式石室がむき出しになって残りますが、低木が育ち真冬でもよく見えません。
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南東より見てます。石室は西南西向きで図とも合致するのですが周辺の人が集めた石と認識されてる事からすると2号墳の落ちた石などが寄せられてるのかもしれません。
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移築された4号墳の石棺もどこに行ったのか・・・?

7号墳は大正に入ってすぐ調査され主体部構造が記録上はっきりしないものの、飾大刀や耳環、須恵器などが出土したと伝わります。
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墳丘跡地北端にはもう1基の源平入道の墓が、付近の石造物で唯一動かされずに残されてます。

12号墳は古墳公園の西南西400mちょっとの八王子神社の基壇になってます。参道を登って南より見てます。
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南北約40m、東西約50mの平坦部上に在る直径約30m、高さ約3mの円墳です。

南東より見てます。宅地開発時の調査報告では11~15号墳はなんら調査せずに破壊されたと書かれてますが・・・。
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もっとも同資料をよく読むと何かしらの調査記録の残るもの13基、未調査現存1基(5号墳)、未調査破壊5基、自然地形と判明1基(15号墳)と書かれて確認されてる19基を超えてしまってます。

裾部に溝状に窪んだ場所が有りますが、周溝の痕跡ではなく下の斜面に水を浸み込ませない様に掘った排水路みたいです。
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墳頂の八王子神社社殿です。この社殿改修時に一部発掘調査されてますが古墳と確定できる遺物等は発見されてません。
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参道を下りた目の前、手前の畑が未調査のまま破壊された14号墳の址です。ですが後方の擁壁で取り込まれてない場所が気になります・・・。
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右上の民家の奥に13・15号墳が在ったとされ、1基だけ挟まれた谷津の底というのも???なのですが・・・。

三島市夏梅木古墳群(前編)

夏梅木古墳群は伊豆縦貫自動車道三島玉沢インターチェンジの南西およそ1kmで錦が丘団地・つつじが丘団地北方の、箱根の山から南西に続く源平山丘陵北縁に分布する古墳群で19基まで確認されてます。資料によって内容が異なるのですが、墳丘2、移築(?)復元墳丘1、石室露出1の遺構が残る様です。

夏梅木古墳公園内に6号墳が復元されてます。
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北より見てます。周辺の宅地開発時の調査報告だと移築復元とされ、古い航空写真では墳丘が北側にはみ出ていて、直線状のこの農道が避けて撮影位置後方に曲がっていた様にも見えます。
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南西より見てます。現状直径14m、高さ約2.5mほどで復元されてます。同資料では同じ系譜関係で南東近くに在った直径12mの16号墳が最大規模とされてます。
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右側の歩道が周溝跡っぽいですが、実際幅約1.5mの周溝を持ってて中から7世紀代のフラスコ形瓶が出土しました。

南向きに無袖型横穴式石室が開口してます。入室は出来ません。
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6号墳と16号墳のみ、柱石を立てて羨門としてましたがそれは復元されてません。

門扉越しに石室内部を見てます。半地下式でL6m×W1.5m×H2mの広さです。復元に際し一部失われていた石材を新たな石で補ってます。
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飾大刀をはじめ武具・馬具・耳環・須恵器などが出土し、それらから6世紀末に築造され、7世紀にかけて追葬が行われていた可能性も考えられてます。

奥壁前、右壁側にはL2m×W0.6mの石棺材が残されてます。8~10号墳も同様の場所に石棺を据えてました。
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床には石を敷いてなかったとの事ですが、復元後は6・16号墳にだけ使われた板状節理と思われる山石が敷かれてます。

解説板です。ここでは元位置での復元と書かれており、写真を見る限り北側にはみ出ていた部分は墳丘ではなさそうに見えます。
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群中2カ所に山の名にもなっている源平入道の墓が在って片方は事業予定地になったため石室の正面近くに移築されてます。
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その奥の斜面下には8号墳が在りましたが、何故か6号墳と同様石室に礫が敷かれてませんでした。

続きます。

つくば市沼田古墳群

旧筑波鉄道筑波駅の西およそ150m、筑波山南西側山麓の桜川へと伸びる低丘陵上に築かれてる、前方後円墳・円墳各1基から成る古墳群です。

つくば市教育相談センターの南より沼田八幡塚古墳とも呼ばれる1号墳西面を見てます。周辺では最大規模の墳丘を誇り「八幡塚」として県指定史跡となってます。
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前方部は麦畑で大きくくびれる様に削られてた為、昭和53年に推定で盛り直されてます。

南東より真横から見てます。南南東向きの墳丘長91m、高さ8.2mの前方後円墳で、右が前方部で左が後円部です。
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周溝を持つと想定され、県教育委員会HPでは全長120mとしてます。東隣の八幡池も周溝の名残と推定され、中から人物埴輪が見つかってます。

前方部より3段築盛の後円部を見てます。主体部は未調査で不明ですが、出土した埴輪片などから6世紀前半の築造と推定されてます。
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後円部で180度振り返って前方部を見てます。中央が三角のマウンドになってますが、修復前は高さだけ残してほぼ同じ幅まで削られていた様です。
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発掘調査に基づいていないので上空から見ると前方部が直線的で幅が広過ぎる様に見えます。

後円部墳頂で覆屋で護られてる八幡神社です。参道は筑波山を向いています。
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後円部の各所で葺石が露出してます。
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後円部東面に設置されてる解説板です。成務朝時の初代筑波国造である阿閉色命(あべしこのみこと)とする説が有りますが、埴輪が成務天皇とはだいぶ時期が離れます。
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初代筑波国造自体も異説が有りますが、何代目にせよ筑波国造の墓とするのは妥当だと思います。

1号墳の後円部の西南西に50mほど離れた2号墳を北西より見てます。直径約30m、高さ約3mの円墳です。
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墳頂には1号墳主軸線と向きを合わせて南南東向きに石祠が祀られてます。
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その下筑波山を背に南南西向きに横穴式石室が開口してます。
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半ば埋まっていて狭い開口部からカメラを突っ込んで石室内を撮影。流れ込んだ土砂が反射してどうしても玄室まで光が届きません。
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玄門の奥だけ加工すると片袖型石室の一枚岩の奥壁と割石積の側壁が窺えます。
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かつては周辺に他にも墳丘が在ったとも伝わりますが、周りの斜面は段々畑ではなく、連なる堀状に耕作されてたらしく痕跡すら見られません。

駿府城令和元年度発掘調査現地見学会(後編)

天守下門跡の解説が終わると、次は松井氏による天正期の小天守台などについての解説です。

1.5回目の解説の模様で、ピンクのローピングが小天守台を表していて松井氏の横のコーンがその北東端ですが、東へ当時の本丸北面の石垣が続いているのでこの遺構部分では「角」には見えません。
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ここから奥に20m×20mの小天守台が見学通路を越して右奥方向に在って約33m×約37mの大天守と連結されてました。

見学通路脇に小天守台南面の表示はされてますが、南東の隅石は奥の木の下でマスコミだけの公開でした。
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昨年は家康が関東に転封後の中村氏の天守との推定でしたが、判ってきた規模・技術や「家忠日記」の記述などから小田原征伐の前に豊臣大坂城築城の人的・技術的支援を受けた家康の造営と推定が変わってます。

北西隅付近は慶長期の造営で破壊されて殆ど残ってません。
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家康の心情は、豊臣の一家臣となって豊臣風の城を築き(築かされ)、それを破壊して一から新しく築き直した事で表されてるだろうとの話でした。(大坂城で同じ事をしたのは秀忠)

南西隅部も石垣が若干残ります。そのまま大天守と繋ぐブリッジになっていて、左奥の折れてる所から先が大天守台になってます。
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小天守台北東隅部の横の見学通路から東側を見てます。右側の野面積みの石垣は天正期の本丸北面です。左側は慶長期の石垣の基礎部分の石列です。
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天正期の堀を埋めて本丸を北に拡張し、曲輪の縁に多聞櫓を建てた郭内側の石垣の基礎部分が、天正期の石垣基礎より4mほど高いそうです。
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慶長期の石列も本丸に埋もれて隠れる部分なので石材の加工がほぼ無く、一見同じ野面積みに見えますが、よく見ると石を割る際の矢穴が一部に見られます。

天正期の石垣は工事囲いの手前で北側に折れていて、本丸北東隅櫓の存在を窺わせます。
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こちらは天正期の大天守台を南東隅付近から見ています。奥に立ってる作業員の方は・・・
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見学者の近付けない場所で発見された井戸の石組の位置を教えてくれてました。
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その方の背後からは今川時代の薬研堀状の溝がW3m×D1.7mで検出されてます。
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ピンクのローピングが溝幅なのですがこの向きでは把握し難く、溝の方向である南側通路からではトレンチの断面自体が全然見えないので解説でも殆ど触れられてませんでした。

中から陶磁器が出土してて、きゃっしる内で展示されてます。
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昨年の記事でも載せた天正期の本丸西面の石垣と、慶長期小天守台の石垣が並ぶ場所ですが、
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「作り方偏」と
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「石のかたち偏」の二枚の説明パネルが掲示されてました。
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またここから出たこれぞ金箔瓦という丸瓦がきゃっしる内に展示されてます。
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大坂城の様な凸部に金箔を貼るのではなく安土城の様に凹部に貼るタイプです。

駿府城令和元年度発掘調査現地見学会(前編)

昨年度に引き続き今年も駿府城の本丸発掘現場で新たに大発見もあって、一般に報告する見学会が催されました。

工事囲いの外には告知が何カ所か貼られていました。その甲斐有ってか最初の説明時には200人近い人が訪れていたのではないでしょうか?
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そのため2回目の前に説明をよく聞けなかった人の為にもう一回説明を増やして対応されてました。

更に現場内の概略図も貼られていました。見学は右回り一方通行で何周でも出来ますが、配布資料にも書かれてるものの今年はそのアナウンスが無かったので逆流する人も多かったです。
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調査区域目指して周ります。昨年ご紹介しなかった北東角から見てる約61m×約68mの天守台全景です。
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一昨年度の成果ですが、天守台北側に石垣の裏から見つかった栗石を区画する川原石列についての説明パネルが置かれてて、
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前夜の雨のお陰かその遺構が以前よりも見易くなってました。
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そのまま東へ進むと昨年下りて見学した天守下門跡が掘り下げられ、柱穴列や出土した木材が見えて来ます。
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これを見ると木橋は正面石垣の中心でなく、左手の多聞櫓側にオフセットされていた事が解ります。

東側より見てます。寛永12年に崩れ落ちた木材が思いのほか大きく、形状なども異なり、この辺もう少し詳しい説明が欲しかった気もします。
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また昨年は角の部分しか見えてなかった本丸北面・多聞櫓下の石垣が9m程先まで掘られて露わになってます。
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時間になって昨年と同じく市歴史文化課増山氏の解説が始まりました。
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本丸北面の石垣もそう割れずに綺麗に残っている事から天守台石垣石材の傷みは高さと支える建物の重量のせいではないかとの事です。

杭が刺さってる場所が木橋の柱穴で、太さは約60cmです。氏の左側の白線は、堀底の堆積具合を見てて、ここまで掘ると水が相当湧くそうで、明治に陸軍歩兵第34連隊が駐屯した頃でも上段の線までの堆積でした。
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天守台に沿ってのみ、栗石が敷かれた様になってますが、これらは天守台を築く時に使われた余りだそうです。
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堀底からは木材の他にもこれらの鎹(かすがい)や鋲(びよう)、小さめの瓦が出土しきゃっしる内で展示されてます。
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大発見の天正期小天守台は明日に続きます。

土浦市坂田塙台古墳群(後編)

武者塚古墳の南南西およそ190mに在る8号墳を北東より見てます。発掘調査で墳裾や左手前の農道の下などから円筒埴輪片や須恵器片・土師器片が出土し、2号墳と同時期の5世紀後半の築造と推定されてます。
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農道に面して並んでる木の右から2番目がほぼ墳丘の中心軸線上で、右側(西側)は土取りで特に大きく削られてます。

北西より見てます。現状南北約18m、東西約12m、高さ6.2mの長方形の墳丘ですが、調査の結果元は直径約30mの円墳で、各幅4m以上の二重の周溝を含めた直径は約55mに達します。
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この左手、東に50mほど離れた農道下で直径約10mの墳丘と想定される円墳の14号墳が見つかり、こことよく似た円筒埴輪が出土してます。

墳頂の様子です。1/3程まで西から削られていて、更に現平坦面西側に水槽が設けられて、墳頂より数十cm四角く掘られてしまってます。
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大正時代に筑波鉄道敷設の為の土取りで大きく削った際に石棺材と思われる板石が出たそうで、調査でも筑波山周辺産と思われる雲母片岩の小片が出土してます。

8号墳から75mほど西に離れてる9号墳を東より見てます。私有地の境の奥まった場所に在り農家の方に声がけして藪に入って見てます。
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墳丘脇の小屋を周って北から見てます。直径約20m、高さ3.5mの円墳で、群中でも残りが良いとされてます。
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開けたお庭風の場所を挟んで9号墳の北西40mほどに在る10号墳を南東より見てます。
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北東より見てます。右手から上がってくる坂を掘った際の土を盛ったらしく西側は緩やかに長い斜面で続きますが、古墳としては直径16.5m、高さ2.5mの円墳です。
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墳頂を西より見てます。武者塚古墳を発見された方の先祖代々の墓域となっていて、中央の丸顔の石仏は40年以上前に亡くなられたご主人を偲んで所有者の女性自らが彫られたものだそうです。
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その背後には歴代の先祖様を祀る石塔が並びます。台地上下に今でも広い土地を所有されてて、なかなか管理が行き届けないとの事でした。
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武者塚古墳の発見時の事などいろいろなお話も聞かせて頂きました。

成就寺の南南東およそ150mに在って、峯台館の土塁に取り込まれてる11号墳を北東側前方部の横より見てます。
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坂田塙台古墳群としては現存する西端の墳丘になります。

南より真横から見てます。全長28m、高さ4mの南東向きの前方後円墳です。左が後円部で右は墳丘よりも高い土塁にと繋がっている前方部です。
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後円部から左手前にも土塁が続き、周囲に円墳しか造られてない事から円墳+土塁とする考えも有ります。ここでも予算が・・・と1号墳と同じ事を筑波大に言われてるそうです。

前方部より後円部を見てます。かつて右奥の明るい場所に12、13号墳が並んで在りましたが道路拡幅で消滅し墳形も不明とされてます。
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後円部で180度振り返って前方部を見てます。峯台館の土塁が接続して左右の奥へと続いています。
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訪問時は全く見られませんでしたが、埴輪片が採集されてて、6世紀中頃までの築造と推定されてます。

土浦市坂田塙台古墳群(前編)

武者塚古墳群の南、塙家屋敷が建てられ塙台と呼ばれる台地縁に分布する古墳群で前方後円墳1基を含め、現在までに15基確認されてます。この内12・13号墳は石棺が出たと伝わりますが生活道整備で詳細不明のまま消滅、14・15号墳は農道整備で見つかった埋没円墳で、痕跡は残されてません。

武者塚古墳石室の南南東およそ290m、群東端の1号墳を南より見てて、直径16m、高さ2.5mの円墳です。
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左奥の農道下から人物埴輪や円筒埴輪の出土した直径約9mの15号墳が見つかり、ほぼ同距離で右奥の台地縁では未確定ながら6世紀代に築かれた埴輪を持つ古墳が想定されてます。

南東より見てます。2号墳の所有者の方によると、筑波大学的にはこちらも調査したいものの予算が無くて未だ出来てないとの事です。
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30mほど西に在る2号墳を東より見てます。江戸時代の末に甲冑が2セット出土し、武具八幡古墳と呼ばれてます。
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西より見てます。発掘調査もされてその際にも武具片や須恵器片などが出土し、5世紀後半に築かれたと推定される現状直径約15m、高さ約3.5mの円墳です。
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墳頂には武具発見を記念した石碑と供養塔が並び、石碑碑前には別の板石が寝かせられてます。
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発掘調査では推定武具発見後主体部はほぼ完全に破壊されてるものの石棺の痕跡は無く、木棺直葬の主体部を想定してます。

2号墳から西北西に50mほど離れてる3号墳を南東より見てます。
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南西より見てます。見た目は直径約10m程度のマウンドですが、ここから6号墳は地中レーダーで測量され、それによると長軸13.8m、短軸11.1m高さ最大約2.5mの規模とされてます。
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この辺りは南東へ下る緩斜面になっており、墳丘の左右で地山の高さが1m以上違うのが見て取れます。

4号墳はそのすぐ南の斜面上に築かれた円墳とされますが、長軸約12m、短軸約8m、高さ1m未満の低い高まりが残るのみです。
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北西より見てます。左奥が高まって見えますが、墳丘を避ける様に下る道がかつて造られたらしくその縁が重なって見えてます。
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3号墳の北西およそ15mに在る5号墳を南東より見てます。直径約15m、高さ最大2.24mの円墳です。
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西より見てます。左側に周溝跡らしき窪地が見られます。
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5号墳から15mほど離れて西に在る6号墳を北東より見てます。ここから北西にかけて台地の縁が盛り上がっており、明瞭な墳丘との境は判りません。
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北西より見てます。測量調査の結果右手前の高まりは後世の改変とし、東西約16m、南北最大3m、高さ1mの楕円形のマウンドとされてます。
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7号墳は群中最大の円墳である8号墳のすぐ南に在ります。6号墳よりも更に高さが無く、分布図を見ないと気付かないかもしれません。東より見てますが現状直径約10m、高さ約0.5mほどの規模で台地の縁の高まりに取り込まれつつあります。
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北東より見てます。ここは何の調査もされてませんが、もしかしたら想定外に大きい規模だった8号墳の外縁と被るかもしれません。
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坂田塙台古墳群としては分布図通りにここまで7カ所のマウンドを見られますが、以前武者塚古墳や近隣の現存古墳を坂田古墳群として纏めていた際は4基のみ含められていて、古墳と認める根拠に乏しいとされた4・6・7号の3基はカウントされてませんでした。

続きます。

我孫子市前原古墳群

水神山古墳の主軸線上を北東におよそ250m、高野山桃山公園内の手賀沼を南に見下ろせる台地縁で11年前に市内最古の古墳2基の周溝が発見されました。現在は埋め戻されてます。

設置されてる解説板だけがそれを伝えます。一辺約15mの方墳が2基並んでいて、周溝から3世紀代の甕や坩の土器片が出土しました。
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解説板から北に退いて埋め戻し跡を見てます。もしかして墳丘の中心に植樹されたのでしょうか、発掘時に無かった木が・・・。
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右の木の下が1号墳で、左の木が2号墳です。

手賀沼は当時よりだいぶ小さくなってしまいましたが、今でも眺めは素晴らしいです。
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あびこ電脳考古博物館で解説板中央の小さい調査時の写真などが紹介されてます。
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あんけん

Author:あんけん
多趣味で統一性のないアラフィフです。

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