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沼田市奈良古墳群(その4)

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10号墳は9号墳の北およそ45mの、現存墳丘中北東端に在ります。
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南より見てます。解説板に掲載されてる「ト」の字形の珍しい半地下式の横穴式石室を有します。
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県内でもう1基同様の石室を持つ高崎市のお春名古墳は埴輪が見つかって6世紀の築造と考えられる事などから、遅くとも7世紀初めまでに築かれたものと推定されてます。

西北西より見てます。副室の無いこちら面は石室ギリギリまで削平されてます。左奥の高まりは古墳とは関係無さそうでした。
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北北東より見てます。東面は副室を覆う様に封土が残るためこの向きだと直径約11mの円墳に見えますが、公式には原形を留めない程削られてるとされてます。
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石室内の様子です。目玉ですがここも石室内は入れません。他の施錠されてる石室と比べると封土も残り入り口横の切り株以外の石材もしっかりしてる様に見えますが、雨が降ると水が結構滴るので、やっぱり隙間が出来てるのでしょう。
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真っ直ぐ見えてる主室は無袖型のL5.2m×W1.4m×H1.7mの広さで、左壁側手前にL2.1m×W0.8m×H1mの副室を持ちます。現場でお会いした地元マニアの方は近年塞がれる前に何度も入ったことがあるそうで羨ましい限りです。

グーグルマップのストリートビューで数年前の撮影の石室内、主室・副室の様子が紹介されてます。

11号墳は10号墳の西南西におよそ15mの近さで並んでいます。
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南東より見てます。ここも石室周辺を残して特に東面を削られていて、現状南北約13m、高さ2mの円墳の主体部から西側が残っている状態です。
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L5.4m×W1.6mの両袖型横穴式石室は羨道が埋没し、玄室にも土砂が流入していて未調査です。

南より見てます。2・3号墳と同様に玄室よりも低い構造と考えられる羨道は埋まっていて石室内の様子は見えなさそうですが・・・
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奥壁両脇の壁が抜け落ちていて横から石室内が見えてます。
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積み石1段分余りの高さを残して埋まってますが、見えてる板石は石棺材でしょうか?死床の仕切り板なのでしょうか?

1号墳は16号墳の北東約30mの場所に在ります。
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南より見てます。全長5mの両袖型横穴式石室が開口してますが、天井石が動いていて危険な為ここも施錠されてます。
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西より見てます。直径約14m、高さ2.7mの規模の円墳です。
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羨道から玄室を見てます。玄室はL2.9m×W最大1.9m×H2mの広さで、僅かな袖から膨らむように奥壁に向かって拡がる形状です。
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中の草が刈られてませんので玄室床面の様子等は見えませんが、天井石が動いて隙間が出来てるのか奥壁は良く見えます。

タ号墳は1号墳の北西およそ40mの古墳公園北西端に在ります。ここだけ墳丘名は読めません・・・。
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直径3m弱、高さも1m未満の小さな地膨れで、半地下式の石室が中に有ると想定されてますが未調査です。

「タ」号とは昭和30年の群馬大学尾崎研究室による分布調査の際振られた名称で、群馬県古墳総覧では42号墳と振られてます。
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沼田市奈良古墳群(その3)

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16号墳は2号墳の北北西およそ27mで位置的には消滅した墳丘も含めた群の塊の中心近くに在ります。
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東より見てます。すぐ横に農道が通された為やや角張った形状に削られてますが、未調査なので詳細不明です。
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北西より見てます。直径6m程の低い高まりで、墳頂に横穴式石室の石材が露出していると考えられてますが、西面にも大きめの石材が見え、石室が崩れて墳丘が小さくなってる可能性も有るのではないでしょうか?
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左上に見える7号墳との間は完全に開墾されてしまった様ですが、やや斜面上側の1号墳~11号墳の並びとの間には破壊された石室らしき痕跡が幾つか見られました。

これはその一つで1号墳と7号墳の間に在り、昭和30年当時に作られた分布図のどの墳丘にも当てはまらない様ですが段々畑の石垣には見えませんでした。
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7号墳は16号墳の東におよそ90m離れて4号墳の北東側に在ります。
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南東より見てます。石室の封土も良く残り、群中もっとも旧状を伝える墳丘です。
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とは言え羨道上部の石材が失われており、恐らく右手に転がってる石も当墳丘に使われてたのではないでしょうか?

西より見てます。南北20m弱、東西約16m、高さ3.5m強の長円形の墳丘で、群中最大の円墳です。
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石室は後世に開けられていたため遺物等は見つかってません。

石室内の様子です。L7.3m×W1.7m×H1.7mの袖の出が小さい両袖型横穴式石室で、羨門は2号墳の玄門と同様の構造で閉じられてました。
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両袖型とは言え玄室は斜めに少し広がるのみの殆ど無袖型に近い平面形で、7世紀前半の築造と推定されてます。

9号墳は7号墳の更に東で耕作地の東端に在り、削った斜面の段差に半ば取り込まれてしまってます。
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南より見てます。南南西向きに開口してる石室も玄室の奥壁側の半分程度が残るのみと考えられ、右手切り株の外側も元々の墳丘ではない様です。
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北より見てます。奥壁上部の石が無くなり鏡石の上からも石室内が見えてます。
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僅かに高まりが石室北側に残り、手前の端から左壁側の開口部側で残る石材までの長さは約8mです。

石室内の様子です。W1.2m×H1.7mの広さで4.4m程の長さが有ったと推定されてます。
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墳丘の位置や、幅の狭い奥壁などから7号墳同様の7世紀前半の築造と推定されてます。

もう一回続きます。

沼田市奈良古墳群(その2)

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2号墳は駐車場から散策路が真っ直ぐ伸びた先、5号墳の北およそ25mの場所に在ります。
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南西より見てます。現状直径約13m、高さ2.7mの円墳です。
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斜面上で山寄式に築かれ斜面下側の高さで全長4.6mの両袖型横穴式石室が開口してますが、内部調査の上入室は望ましくないと判断されて施錠されてます。
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玄室が羨道の倍近い高さを有するので出来た天井の段差部分の石が抜け落ちてしまってます。

門扉から羨道を見てます。外から羨道の天井石は一枚モノに見えますが玄門だけ石を低く架けて疑似まぐさ石状になってます。
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盗掘のため須恵器大甕の破片しか出土してませんが、玄門は板状の川原石を面合わせで立て、玄室側に扁平な割石を積んで内側に崩れにくい様に工夫されていた事が判明してます。左壁側の川原石が立ったまま残ってます。

羨道からは玄室の床の一部しか見えませんが天井石の上から一枚モノの奥壁も見えます。天気が良くなかったので手を伸ばしてフラッシュを焚いたら鏡石が写りましたが、奥壁側に隙間など空いてないので日が照ってたら見えなかったかもしれません。
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玄室はL2.5m×W1.9m×H1.6mの広さで、7世紀後半の築造と推定されてます。

3号墳は2号墳の東側に並んでます。更に東側には4号墳が在って、それぞれとの石室同士の距離は約25mです。
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南西より見てます。石室上部の墳丘の残りも良く、石室も両行な状態で残ると考えられてるので開口部は封鎖されてませんが土砂で埋まってるので石室内の見学は右奥に見えてる7号墳推奨だそうです。
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とは言え露出している玄室の天井石も斜めに落ち込んで見え、元はもっと封土が高かったのだと想像できます。

北東より見てます。現状直径約15m、高さ約3mの規模で7号墳に次いで2番目に残りの良い墳丘です。
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石垣の前から石室内部を見てます。天井石の隙間から土砂が流入し、またそれが石室前に流れ出るからか羨門前に墳形に合わせる様に石垣が積まれ開口部も内部より狭くなってます。ここも玄門の天井が気持ち下げられてるのが見えます。
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下方が埋没してるので未調査ですが、全長5.9m程の羽子板状な平面形の両袖型横穴式石室で、玄室はL3.1m×W最大2mと想定され、7世紀後半で2号墳よりも先に築造されたと推定されてます。

4号墳は3号墳の東に並び、6号墳の北北西側に位置します。
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南西より見てます。天井石が露出し、一部は陥没しており、南東部は石垣で護られてます。
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石室内部は埋まってますが、5m以上の全長の横穴式石室と考えられ、奥壁部分の幅のみ1.5m程度と推定されてます。

北東より見てます。現状直径12.5m、高さ2m強の規模が残ります。
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続きます。

沼田市奈良古墳群(その1)

関越自動車道沼田インターチェンジの北北東およそ1.3km、利根川支流の薄根川右岸の河岸段丘上に7世紀になってから築かれた古墳時代終末期の古墳群である奈良古墳群が分布してます。59基まで確認されてますが他にも古墳址らしき場所も在ります。市の史跡となった後も含め農地化のためにその多くは削平されましたが、古墳公園として13基が現状保存されてます。

見学にはオフィシャルの奈良古墳群散策マップ(PDF)がとても便利です。

関越道沿いに東側を北上し、奈良大橋を渡って100m程進むと右手に県指定に修正された案内看板が出てます。
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県の史跡に指定された事を受けて指定エリアを外れた群の南西側に駐車スペースが設けられ、史跡指定を記念して見学会も予定され草刈りもされました。
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墳丘の下に6世紀中頃の榛名山二ツ岳の噴火による軽石の層が有り、埴輪が全然出てない事から、7世紀代になって東側より築かれていったと推定されてます。

群を北東側より見てます。緩斜面の先の谷を薄根川が左から右へと流れてます。
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こちらから見ると各墳丘の残りは良好に見えますが、殆どの墳丘が主体部が剥き出しになるほど上部が削られてます。石材は補強などされてませんので危険な為、石室の上に上がる事と一部石室に入る事が規制されてます。

駐車場から北東に向かってウッドチップを敷いた散策路が設けられ、その脇に群の解説板が設置されてます。
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その解説板に掲載の整備区域の分布図です。左側の号数の省略された墳丘2基は北側がタ(カタカナのた)号墳で、南側が16号墳です。
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またほぼ破された古墳址が何ヶ所か区域内外で今でも見られます。

5号墳は駐車場のすぐ東側に在ります。
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西より見てます。緩斜面上の同じ標高で並ぶ墳丘が多いからか墳丘の近くまで地面を削って石垣で段々畑が造られてるのですが、この墳丘西面だけは段差に突き出ていたので大きく直線状に削られていて、倍以上の高さの墳丘に見えてしまいます。
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北東より見てます。直径約12.5mの円墳ですが上部が削られて推定全長6mの両袖型横穴式石室の天井石が露出してます。墳裾から天井石までの高さは約2mです。
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石室内は土砂で埋まっており、未発掘ですが一部見えてる奥壁・側壁上部の位置から玄室は胴張り状の可能性が考えられており、7世紀後半で群中でも後の方の築造と推定されてます。

6号墳は5号墳の東に約40m離れて在ります。
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南西より見てます。直径約13mの円墳ですがここも上部が削られて石室の天井石が露出してます。墳裾から天井石までの高さは約2.7mです。
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南東より見てます。天井石の位置と南側裾部との取り合いなどから全長7m程の横穴式石室の主体部と推定されてますが、形状などの情報を得られない埋まり方のため確認はされてません。
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群東部の墳丘は西側よりも先行して築かれてる事から7世紀前半の築造と推定されてます。

8号墳は6号墳の東北東に約20m離れて在ります。
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西より見てます。耕作の為石室周辺を残して削り取られており南北約8.5m、東西5m弱、高さ1.5m程のマウンドが残ります。
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天井石ギリギリまで削られてますが、石室内は完全に埋まっていて詳細は未調査です。

南東より見てます。北東側は耕作地の反対側だったのか比較的墳丘が残って見えますが、石室も5m長程度の小さい規模と推定されてます。
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位置的にここも7世紀前半の築造と推定されてます。

続きます。

那須町唐木田古墳

舟戸古墳群前から国道294号線をおよそ8.4km北上すると、芦野氏旧墳墓が在って国道と旧芦野宿に分かれるちょっと手前に横断歩道が見えて来ます。横断歩道上から右手に見える墳丘が唐木田古墳です。
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竹藪の手前は旧道が国道化され拡幅されるまで畑地だったらしく墳丘裾部まで50cm程削り取られてます。

北より見てます。墳丘周囲は竹林で肉眼ではちょっと離れても規模の割には良く見えるのですが、一切の案内が無いので気付き難いかもしれません。
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主体部は未調査で規模と西側の切土部分の確認のみ行われてます。

北東隅部に寄って見てます。奈良川を西に見下ろす斜面上に山寄式に築かれた一辺約10mの方墳で、高さは西面で約4m、東面で1.3mです。
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現状角張っては見えず、言われないと円墳に見えてしまいます。

南より見てます。墳形や、「唐木田」は唐来たの意だとする推測などから、葬られてるのが渡来人ではないかと町では推定してます。
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舟戸古墳群は一般的に関東最北の古墳群と認識されて町の史跡に指定されてますが、こことの間、特に伊王野地区には未調査の単基古墳や古墳群が存在し、墳丘も有るそうですが地元那須歴史探訪館にも関する資料が無く、地元図書館や県立図書館でも望み薄だそうで、当墳丘についてだけ場所と名称が確認出来ました。また舟戸古墳群についても追加情報が有ったので、記事を修正しました。

沼田市追墓(おっぱこ)古墳

関越自動車道沼田インターチェンジの南およそ650m、ぬまた聖苑の敷地内に在った追墓古墳の石室が移築され推定復元されてます。

石室がぬまた聖苑の建物脇に移築されてます。全長6.1mで、詳しく書かれてませんが手前が前庭、三角形っぽい天井石の下が一段床の高い羨道、奥の巨石2つの下が玄室の構造に見えます。
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墳丘は旧利南村8号墳とも呼ばれ敷地入口近くに在った直径約13m、高さ推定3mの円墳で、その下から見つかってる堆積軽石灰の層から7世紀前半の築造と推定されてます。

奥壁側より見てます。奥側の一番大きい天井石は2m以上の長さの安山岩で、これだけ角がとれて丸みを帯びていて違和感が有ります。(測ってませんが玄室よりも短いので4mはオーバーな気がします)
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天井石はコンクリートでしっかり固定されてます。

石室内部の様子です。片袖型に見えますし、奥壁手前の床が左右で明らかに造りが変えてあるのですが、移築時の推定度が判らないので何とも言えません。公式には両袖型と書かれてます。
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玄室はL3.6m×W2.3m×H約1mの広さで耳環が見つかってます。

すぐ傍に設置されてる解説板です。こちらだとおつはこ古墳と読み仮名が付いてます。
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市原市持塚古墳群3号墳

持塚古墳群は神門古墳群諏訪台古墳群の東方、国分寺台の住宅地の中心近くに分布していた前方後円墳1基・方墳1基・円墳3基から成る古墳群でした。同じ台地上の他の古墳群と違って一ヶ所に集中しておらず、各群集墳の間でやや独立気味の5基を纏めた感じです。

国分寺台山王公園に唯一残された3号墳を南より見てます。後世に三山塚に転用され、惣社行人塚と地元で呼ばれてきたほか、住宅地の整備前は国分寺台350号墳と呼ばれてました。
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一部資料では1号墳の南西に隣接して共に消滅した4号墳を3号墳としてて紛らわしいです。

西より見てます。塚転用時に方形に改変されてますが、直径23.5m、高さ約4mの円墳です。
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主体部は未調査ですが、周囲に幅約6mの周溝が検出され、中から円筒埴輪や家形・馬形などの形象埴輪が出土して、5世紀中頃の築造と推定されてます。

墳丘南西側に設置されてる解説板です。フェンスの内側なのが少し残念です。
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すぐ東に築かれていた前方後円墳の2号墳は諏訪台古墳群でも確認された数基と同様に、円墳に前方部を足していた事が判明してます。

渋川市大塚古墳 横野村第20号墳

国道17号線鯉沢バイパス吹屋原交差点から県道158号線を西へおよそ250m坂を上がって、旧沼田街道を北へ進むと左手に墳丘が見えて来ます。
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北より見てます。長尾村14号墳とも呼ばれ群馬県古墳総覧では径20mの円墳とされてます。
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南西より見てます。現状は一辺約20m、高さ約4mの方墳状で、神社基壇となってます。
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由緒書きで引用されてる綜覧の方では一辺約20m、高さ約5.1mの方墳とされてますが、未発掘の為正確な墳形は判りません。

墳頂には正一位稲荷大明神が鎮座しています。
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その為信仰の対象として地元に大事にされてますが、鳥居に掲げられた額は落ちて割れたものをそのまま繋いでるので文字が一部欠けてました・・・。

旧子持村による由緒書きによると「大塚」の地名は当墳丘だけによるものでなく周辺にも他の墳丘がいくつも在った事によるとされてます。
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利根川を跨ぎますがここの東およそ550mの県道158号線沿いに旧横野村20号墳が残ります。北東より榛名山と重ねて見てます。
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直径約7m、高さ約2mの円墳で、蛇行する利根川の段丘上で川を南に見下ろす斜面上に築かれてます。

北西より見てます。ここ自体も未発掘で、すぐ西側など近隣には3基の円墳が在った様ですが消滅しています。
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前橋市大室公園の古墳(その7)

二子の名の付く墳丘以外は「小古墳」にのみ小二子古墳と名称が与えられ、その他には内堀(遺跡)M-〇号墳として順に番号が振られました。
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民家園のすぐ北東側に在る内堀M-4号墳を南西より見てます。整備で復興され、葺石の無い墳丘に新たに石を葺き横穴式石室開口部と埴輪列の一部が再現されてます。
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直径約18~20m、高さ不明の墳丘に北側が広い周溝を持ち、南北の径は約27mに達します。

北西より見てます。北側からは須恵器や土師器ばかりの出土だった事もあってか南側だけ埴輪列が再現されてます。墳丘北側の広い周溝にはわたりが架けられてました。
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生け垣の奥は園内通路なのですが何故か目隠しの様に囲われてます。

南面に開口するL約5m×W最大1.4m×H残存高約1.5mの無袖型横穴式石室が有りますが、石材も多くが抜き取られており残った石も割られて積み直されてましたので、埋め戻されてます。
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破壊が激しく埴輪片も混入する程でしたが、わずかに直刀片や鉄鏃が出土してます。

その横には発掘調査を反映して人物埴輪や馬形埴輪のレプリカが並べられてます。これらの遺物から6世紀後半の築造と推定されてます。
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まさかここも小二子古墳と同様に当初は管理者以外立ち入らないものと想定されて囲われたのでしょうか?

内堀M-3号墳は後二子古墳の南側近く、全体模型の西側で、模型ではまっ平らな円で作られてます。
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公式パンフレットにはただ「古墳」とだけ記されてます。ここの東およそ250mの五料沼の底には内堀M-7号墳がポイントされてますが、五料沼古墳とも呼ばれ石室が有るらしき以外詳細は分かりませんでした。

こんなに大きくはないハズなので周溝跡でもありませんが遊歩道が墳丘(?)の有る高まりを円を描いて迂回してます。奥は後二子古墳です。
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歩道左側の高まりではなく画像左端の僅かな高まりが内堀M-3号墳の位置です。

内堀M-3号墳の僅かな高まりです。左奥に中二子古墳が見えてます。冬場に撮ったら真っ白で全然見えないと思いましたが、夏場でも陽が傾かないと判りにくい様です。
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群馬県古墳総覧にも3号墳としての記載が無く規模など詳細は分かりませんでした。図では付近に径6.3mの下縄引Ⅱ遺跡C-1周溝墓がポイントされてますが当該遺跡は内堀M-1号墳を含む五料沼の北側のハズなので位置がズレてるのだと思います。

そこから流れ山の西側を通って北口駐車場へ向かう脇に内堀M-6号墳が在ります。
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南より見てます。公園として整備は特にされず、模型横の古墳群説明の図以外では紹介もされてません。
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主体部の発掘調査は行われてませんが、墳丘上斜めに見えてる窪みの下に横穴式石室が有ると考えられてます。

北西より見てます。県道103号線によって一部削られ、フェンスが上にズレてます。範囲確認調査のみ行われた直径約21mの円墳で、周溝が全周すると考えられ、含めた径は約25mです。
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その北東側に隣接して築かれていた内堀M-2号墳址を南側より見てます。奥の小屋の辺りには前方後方形周溝墓のC-13墓と円形周溝墓のC-14墓が並んでました。
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直径約9m、周溝を含むと約11mの径の円墳の基部が残りL約2m×W最大約30cmの竪穴式石室の下部が発掘されてます。周溝などからは多数の円筒埴輪片や土師器片が出土し5世紀末の築造と推定されてます。

北口駐車場入り口の東隣に在った内堀M-5号墳の址です。ここについての資料は未見で詳しい事は調べられてません。
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県道の向かい側の農地は一帯が古墳時代前期の墓域である上縄引遺跡で、画像の周辺を中心に古墳または周溝墓が14基見つかってます(資料・見方によって一部を古墳とされる場合と全て周溝墓とされる場合があります)。
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グーグルマップのストリートビューでM-6号墳の並びに1基残ってるのかと思いきや、やっぱり余剰土などの積み上げだったようです・・・。

大室古墳群をはじめ市の公式パンフレット(PDF)が見易く、詳しいです。

前橋市大室公園の古墳(その6)

内堀M-1号墳は後二子古墳の北およそ150m、公園北口駐車場の東隣に築かれてます。
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この略図だと五料沼の北東側に見えますが、実際は北西側です。

南西より見てます。背後は風のわたる丘として整備され、芝を張られ音のオブジェなどが設置されてる広々とした丘です。
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元は梅林で墳丘は基壇を残してほぼ削平されており、円墳であると考えられてましたが、試掘調査によって北西側に小さな前方部が確認されました。

北東より真横から見てます。親子連れが遊び終わるのを10分くらい待って撮った画像も有るのですが、無人だととても小さく見えてしまいますので・・・。
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荒砥村57号墳とも呼ばれる北西向きの墳長35.2mの帆立貝形前方後円墳です。その周囲に周溝の規模を石を並べて表示しており、それを含んだ全長は38.8mです。

前方部より後円部を見てます。整備前の調査までは上段は主体部の辺りだけ少し盛り上がってるだけでした。現在の復元墳丘もイベント時はスタンド席の様に使われて、昇り降りする人によって道が何本も出来た遊具状態です・・・。
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後円部東面~南側くびれ部ではほぼ元位置の円筒埴輪列が残ってましたが、小二子古墳と同じか北面だけ確認されませんでした。

後円部で180度振り返って前方部を見てます。前方部端は後二子古墳や小二子古墳と同様に左側(南西側)が斜めに突出してます。
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基壇くびれ部付近や前方部端を中心に多くの形象埴輪が出土し、前者では人物埴輪や器財埴輪が、後者では冠帽をかぶる男子像を中心に珍しい帽子形埴輪などが配置されてました。

後円部の墳頂の様子です。家形埴輪が置据えられてた場所の杭(?)の下が主体部跡で、戦前に盗掘の後で石室を壊し拡張して炭窯が造られてしまってました。
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推定規模L1.8m×W約1.4mの羨道とL約4m×W約2.5mの玄室を持つ両袖型横穴式石室で、中からは小刀・鉄斧・鉗子・鉄鏃などが、石室前面からは器財埴輪と土師器杯が集中して出土してます。

後円部南側に設置されてる解説パネルです。6世紀後半、後二子古墳の次に小二子古墳に先立って築かれたと推定されてます。
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あと1回続きます。
プロフィール

あんけん

Author:あんけん
多趣味で統一性のないアラフィフです。

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