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小美玉市桃山古墳

玉里半島の南西に在る「玉里の六井六畑八館八艘」の1基の前方後円墳で円墳4基(内1基は湮滅)と桃山古墳群を形成してますが、完全な私有地で木の伐採・草刈りなどの市が一切タッチしてないそうで、主墳のこの墳丘も上がっての見学は困難です。

滝台古墳前から道なりに300m程南下して坂を上がると右手に道路で若干削られた墳丘が見えて来ます。画像右端の自然林の中に2・3号墳の小円墳2基が東西に並んで築かれてますが全く見えません。
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墳丘の断面が擁壁になっていてその上にわずかに墳丘が見えるものの傾斜と見上げる角度の関係で実際の高さも感じられません。

解説板の設置されてる南東側より見てます。墳長53.3m、高さ6.937mの北北西向きの前方後円墳で、手前が後円部で右奥が前方部です。角度は異なりますが山田峰古墳と向きが同じで滝台古墳や権現山古墳とは向かい合う形になってます。
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ガイドに掲載されてる同じ向きの写真は藪化する前に撮影されており、当時は道路からでも綺麗な墳形が残っている事が見られた様です。撮影位置後方の畑に5号墳が在ったとされますが詳細は不明です。

くびれ部脇から見た全体を無理やり繋げて見てます。測量と試掘調査のみ行われていて、円筒埴輪が採集されたほか、馬形等の形象埴輪、土師器、須恵器が見つかったとされており、6世紀後半の築造と推定されてます。
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後円部墳頂には「桃山御陵遥拝所」の石碑が立ち、主体部と思われる石材が露出しているそうですがこの冬は見に行けなさそうです・・・。

解説板です。設置場所がやや高く、夏場はちょっと読むのも苦労するかもしれません。
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右下に見えるのが3号墳ですが、その左に並ぶハズの2号墳は記入されてません。右手のやや大きい4号墳は一応円墳とされてますが桃山古墳の造出しの可能性も考えられてます。
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市原市君塚古墳群

明治の末期に開通した内房線は殆どの古墳所在地の海側を通ってます。千葉市の白旗古墳と同様に例外的に線路の海側となったほど海岸線近くに築かれた古墳群が君塚古墳群です。

海岸の工場群に沿って走る国道16号線、名も無い交差点から稲荷台1号墳記念公園へと向かう稲荷台通りに入って500m程進み、JR内房線を越える陸橋の手前で房総往還という旧道に右折します。小さな川を渡ってコンビニの有る最初の信号を東に折れます。80m先の墓地の手前を再度南西に曲がって(何の遺跡ともされてませんが墓地の土塔の様なマウンドも道路整備前は円墳状のマウンドでした)、西崎公園を右に見つつ150m程進んだ丁字路を左に曲がると石碑が並んだ段が左手に見えて来ます。これが供養塚古墳とも呼ばれた君塚クワノ木古墳です。
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昭和の調査時に基部しか残ってなかった墳丘を木の茂る塚状に復されましたが、東日本大震災後にまた、一辺約15mのブロック塀で固まれた段として基部が残るのみになってしまいました。

南西の上り口より見てます。現在は両脇の竹の柱も立派になって植栽も無くなったみたいです。訪問時はこの改変を知らず、グーグルマップのストリートビューで見たらまさに工事中の光景が撮影されてました。この工事で削った盛土からは寛永通宝や平成の10円硬貨が出土したそうです・・・。
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海に近過ぎる立地などから三山塚と考えられてましたが、昭和終盤にブロック塀の内側で周溝と見られる遺構や主体部のモノと思われる房州石が見つかり、3体分の人骨に土師器片や須恵器片が出土しました。石材は市埋蔵文化財調査センターの遺跡の深層内で紹介されてます。

ここの北東およそ900mの北畑公園には古墳っぽくも見える高まりが在りますが、その線路側の隣のブロックに消滅した北畑古墳が在りました。現在は民家が建ち並んでるので跡地は撮ってません。

君塚クワノ木古墳から南西に進み、突き当りから右へ進んで民家ブロック反対側に回り込むと君塚天神山古墳が見えて来ます。
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中央部が墳丘上へ上がる人によって削られたため、こちらから近付くと前方後円墳にも見えてしまいます。

南西より見てます。住宅に囲まれ変形が激しいですが、一辺約23m、高さ約3mの方墳と推定されてます。
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墳頂を越えた奥側の平面に南東向きで石祠が祀られてます。道路からは殆ど見えません。円筒埴輪がかつて見つかったと伝わります。
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ここから南西におよそ180mの運河の対岸に波渕三山塚が在りますが、今の塚は最近のモノで、君塚クワノ木古墳とほぼ同時期に削平されるまでは北西側の建物の場所に似た様な姿で在りました。こちらは古墳としての遺構は見つからなかったみたいですが、先の墓地から4基のマウンドが似たような間隔を開けてほぼ直線状に並んでいました。他にも北畑古墳にかけても怪しい神社址などが在ったそうです。

上里町帯刀古墳群(その6)

福昌寺の本堂西側には円墳が2基在るとされ、北側の上里町105号墳は径7m、南側の106号墳は径7.5mとされますが、現状は明らかに規模の大きい円墳が1基と周辺の凸凹地形になっていて墓地造成前の地形は窺えず、遺跡分布図のポイントもズレてる様なので、人によって墳丘の想定も異なってます。ですのでこの先は現地で私個人の私見で判断して撮影してます。

上里町104号墳のすぐ北西で福昌寺境内でも北西隅近くに在って帯刀27号墳とも呼ばれる上里町105号墳を南東より見てます。手前の堀状の底が元の地面で墓地が嵩上げされてますが間を残した様に見えます。
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右奥の塀の反対側が用水路になっており、塀に続いて西に水路に沿って土が盛られていて南側も土を盛られてますが最大幅10m弱、高さ約1mのこの高まりが北側でやや小さい105号墳ではないかと思います。

そのすぐ南東側に在って帯刀28号墳とも呼ばれる上里町106号墳を北東より見てます。比較的大きい墳丘に見えますが、墓地が迫りこちら側は削られて変形しています。
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先の105号墳を墳丘と見做さない方はこちらを帯刀27号墳と想定されてますが、公式のサイズと規模が異なり過ぎていて、どちらが正しいか判断が分かれるのも致し方ない状況です。

南より見てます。どう見ても直径15m以上、高さ2m強の規模に見えるのですが、調査時は撮影位置の低い場所が無くて竹と木が生えてる段築状に見える場所とお寺側とが地続きだったのでしょうか・・・?
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撮影位置背後はやや高まって本堂と同じ高さの地整で南側道路まで続きます。上里町106号墳がここの南側に在ったなら現在は民家の建つ下付近になるのでしょうか・・・?

本堂と鐘楼の南側、参道の脇に在って帯刀29号墳とも呼ばれる上里町107号墳を南西より見てます。
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直径21m、高さ約3mの円墳です。

東より100号墳の上から見てます。築山の風情ですが、106号墳よりも規模が有り墳頂も削られてないので、群中最も残りの良い墳丘と言えると思います。
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墳頂は石碑を載せた一段高い塚状になってます。川原石が使われてますが詳細は不明です。
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分布域内の怪しい場所の他、画像の西や南にも古地図や古い航空写真で見られるマウンドも在って未知の埋没古墳も含めればもっともっと数が増えると思われ(推定50基以上)、破壊された墳丘からも壊れた横在穴式石室が見つかるなどしてますから個々の墳丘もずっと大きく、群の形成時期と推定されてる6世紀中葉~7世紀前半の時代には今から想像し難いほど立派な古墳がポコポコ在ったのではないでしょうか。

上里町帯刀古墳群(その5)

群の分布域南西部には室町時代の創建と伝わる曹洞宗福昌寺が建ち、境内には数基の円墳が残されてます。近年も建物新築で1基削平されてしまいましたが、情報が曖昧な墳丘も含め6基の円墳が見られます。
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境内南東の墓地の一角に在って帯刀22号墳とも呼ばれる上里町100号墳を北より見てます。
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訪問時には朝早くから新しいお墓(?)の工事が行われてました。

南西より見てます。直径約15m、高さ約2mのマウンドが目立ちますが、墓地に削られつつも南面に高まりが続いていて、直径23mの規模とされてます。
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墳頂の様子です。簡素ながら頑丈なお堂や石碑が建つ広い平坦面になってます。
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北北西に60m程離れていて、帯刀24号墳とも呼ばれる上里町102号墳を南東より見てます。
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現状は南北約15m、東西約10m、高さ約1mの規模です。

北東より見てます。墳丘の左奥の建物の場所にはつい数年前まで上里町101号墳が残っていて、グーグルマップのストリートビューでも石祠を祀られたその姿が見られますが削平されてます。
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もし墓地の分譲が進んだらここも削平されてしまうのでしょうか・・・?

福昌寺の本堂の裏手に在って、帯刀25号墳とも呼ばれる上里町103号墳を北東より見てます。
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元は径4.8mの塚状でした。古墳としてよりも木曾義仲の父で近衛天皇を警護する東宮帯刀先生(たちはきのせんじょう)と呼ばれた源義賢の墓として有名なマウンドです。

少し傾いてますが墳丘上には義賢を祀った五輪塔が建ってます。周囲を石のブロックと欄干で囲われてしまったので、墳丘にはあまり見えないかもしれません。
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すぐ横に標柱が立ち、義賢の墓についてや帯刀の地名の由来が書かれた解説板と清和源氏の系譜図が設置されてます。
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お寺が建つのは没後300年以上経ってからで、付近に古墳しかない時代にわざわざ小さい墳丘を転用したとは考え難く伝承の通り平安時代末期に築かれた塚の可能性が高く思われます。

南西より見てます。斜めに見ると塚状に見えますが、本当に古墳なのかそれとも伝承が正しいのでしょうか・・・?
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そのすぐ北隣に在って帯刀26号墳とも呼ばれる上里町104号墳を南より見てます。
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お堂から墳丘は微高地で続いており、南から見ると低くて目立たないマウンドですが、左手(西側)へは下がる地形になっていて・・・

西側側面から見ると1m程の比高差となっています。
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下段の石が苦悩を浮かべる顔っぽくも見えますが心霊写真ではありません・・・。

北西より見てます。径7.5mの円墳とされますが、現状は四角く削られた南北約15m、東西約10mで102号墳に近いサイズのマウンドで、墳丘上の岩は全て庭石を運ばれたものと思われます。
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記録上の公式数値よりも大きくなってる様に見えますが、前回の記事以外でもこの古墳群に関しては規模・出土物など個々のデータが混同されてるのでは?と思える点が多数見られます。

もう一回続きます。

上里町帯刀古墳群(その4)

上里町93号墳は地図によって帯刀古墳とも書かれ表示される事も有る群の中心的存在で、案内標識もすぐ近くに設置されてます。
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また群の解説板も墳丘を背に設置されてるのですが、西日で退色が激しいです。
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画質をいじって読み易くしてみると・・・
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古い航空写真や古地図にも見えない場所に古墳が沢山ポイントされてます。

新幹線を挟んで上里町93号墳の南南東およそ110mに在って、帯刀17号墳とも呼ばれる上里町95号墳を南より見てます。
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直径約7mの大きさで私有地内に残される円墳で、一度は敷地内の竹藪は刈られたのですが再度藪化して高さも窺えません・・・。

その南西およそ70mには菅原神社が鎮座します。
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ちょっとした基壇の上に社殿が建ち、その背後に墳丘が在ります。

境内社を幾つも持ち、創建も古いと考えられる事から説明板も設置されてます。
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その裏手に在って菅原神社古墳とも呼ばれる上里町96号墳を北西より見てます。
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直径14m、高さ約2mの円墳です。

よく在る神社古墳の様に墳丘の南側は社殿で削られてしまってます。
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断面には多くの石祠や石塔が並べられていて、周りの石も古墳由来のモノではなく社殿建て替え時などに重機で運ばれた様に思えます。
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南へ続く神社の参道、その鳥居のすぐ西側に在り帯刀19号墳とも呼ばれる上里町97号墳を南東より見てます。
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直径約10m、高さ2m弱の墳丘に新田家供養塔など多数の石碑が建てられてますが、お手入れされてないので現状群中もっとも藪が濃い状況です。

菅原神社の西およそ90mの私有地内に在って帯広20号墳とも呼ばれる上里町98号墳を北側の道路から見てます。直径7mとも消滅したともされてますが、直径約20m、高さ3m弱の規模の円墳が残ります。
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画像右手の竹藪に直径25m以上、高さ2.5m程とされる上里町99号墳が在るとされます。筍狩り(?)らしき場所から竹林内を見てみましたが墳丘らしき場所は見られませんでした。もしかしたらこの墳丘が(分布図の位置が西にズレてて)99号墳で、菅原神社との間にかつて小円墳の98号墳が在ったのかもしれません。ぺんの古墳探訪記さんは竹藪の北隣の福昌寺墓地内の高まりが墳丘であるとされてます。遺跡分布図のお寺周囲のポイント地点の多くが南にズレてる事から考えると、それも実は良い考えなのかもしれません。

続きます。

上里町帯刀古墳群(その3)

上里町88号墳の西南西に約35m離れていて帯刀11号墳とも呼ばれる上里町89号墳を北東より見てます。道路に続く微高地の奥の部分が墓地の基壇になってます。
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墳丘の奥約350m、線路向こうの農地には近年まで地神塚古墳が在りましたが削平されてます。報告書はまだ見てませんが、遺跡分布図から削除されてるところを見ると遺跡ではなかったのでしょうか・・・?

北西より見てます。現状南北約10m、東西約8m、高さ約1.2mの円墳ですが、元は直径12mの規模とされてます。
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画像左奥のビニールハウス前の農道沿いに上里町90、91号墳がポイントされてますが圃場整理で消滅してます。

ここで一端新幹線の南側に移動して、帯刀15号墳を東より見てます。ウエブ上の遺跡分布図では120番と振られてますがこれは誤りで上里町92号墳に当たります。横穴式石室を有するとされてます。
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画像左奥の農地は以前は微高地になっていて上里町145号墳が在ったほか、その手前で原田1・2号墳が発掘調査後削平されてますが、横穴式石室と周溝が確認され耳環等の副葬品や円筒埴輪、形象埴輪が出土してます。

南より見てます。東西に分かれて石祠や石塔が祀られてます。左の1基は明らかに石仏が削り取られていてその跡が馴染まずその時のままの色のままでちょっと怖くなり近接して撮影はしませんでした・・・。
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現状東西約10m、南北約5m、高さ約1.5mの長方形のマウンドで、畔と接する隅部付近だけ川原石が見られますが、葺石かは不明です。

再度新幹線の北側に戻って上里町88号墳の南東およそ230mに在って稲荷塚古墳、もしくは帯刀1号墳とも呼ばれる上里町93号墳を南より見てます。
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南西より見てます。直径31mで群中最大の円墳ですが、上部は高さ約2m程で平坦に削られてしまってます。
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残りの良い西から北面にかけて円筒埴輪や人馬などの形象埴輪が出土し、6世紀後半の築造と推定されてます。

北東より上里町94号墳址の近くから見てます。東面は西側よりも耕作で削られて二回りくらい小さい弧を描いてます。
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墳丘北端に川原石が見られ群中ここだけ葺石として確認されてる様です。
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墳頂に鎮座する稲荷社です。この他に石祠も祀られてます。
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今は恐竜(これはブラキオサウルス!?)が墳丘を護ってるようです・・・。
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上里町帯刀古墳群(その2)

上里町84号墳の西側に35m程離れていて、帯刀7号墳とも呼ばれる上里町85号墳を東より見てます。奥に見える墓地は上里町88号墳です。
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左手の農道とは殆ど同じ高さですが、右奥の農地よりは高くなってます。

南西より見てます。現状南北約8m、東西約6mの微高地に見えますが、古い航空写真で見ると左手の畑を含めた3倍くらいの広さの微高地自体が元墳丘っぽくも見えます。
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個人のお墓の他恐らく周囲に点在していた石祠などが集められてます。

上里町85号墳の北北西に45m程離れた道路沿いに在って帯刀8号墳とも呼ばれる上里町86号墳を北西より見てます。
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画像右端の車の奥に上里町87号墳がポイントされており、詳細不明の帯刀9号墳を指すと思われますが何の痕跡も見られませんでした。

西より見てます。四方を削られ南北・東西とも最大幅約12m、高さ約1.5mの変形したマウンドが築山状に残されてます。
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横穴式石室が確認されてますが、見える石は皆庭石を運ばれたものと思います。

ただ墳頂には一ヶ所、古墳探訪記さんでふっき~さんが案内された主体部の石材には紙垂が据えられてました。
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自分は藤岡に移動する前の朝方の訪問だったので誰にもお会いしてないのですが、これは厄払いというより天の岩戸に因んでではないでしょうか?

上里町85号墳の西南西に約70m離れていて、帯刀10号墳とも呼ばれる上里町88号墳を南西より見てます。
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東より見てます。直径13.5mの円墳の南側に道路が通っていて、高さは北面で約1.5m有ります。
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続きます。

上里町帯刀(たてわき)古墳群(その1)

上里町役場の南西およそ2km、神流川右岸で北陸・上越新幹線の線路の南北に分布する古墳群です。元は30基以上の墳丘が在りましたが詳細については情報も曖昧で、異なる墳丘番号が付けられたり、群中の墳丘でも削平時に名称が別に付けられたり、現存する各墳丘の他「古墳」と確認されてないマウンドや跡地らしき場所も複数在る事から、町として公式には遺跡分布図の付与番号で呼称し、過去の「群〇号」の呼び方は採らないそうです。ただその根源の遺跡分布図中に誤りも有る(表記だけでないので正しく訂正出来ない?)ので、それだけでは現存墳丘だけでも全基触れられないのは困ったものです・・・。

関越道上り線上里町スマートインター出口から高速に沿って800m程東に進み、2つ目の信号の無い十字路を右折して営農センターの横から関越道を潜って右斜めに行ける道を進みます。潜ってから200m程進んだ右手は帯刀3号墳とも呼ばれる上里町81号墳の址です。以下「上里町〇号墳」表記は遺跡分布図の登録番号を表します(「上里町遺跡番号〇番古墳」とかでは長くて格好悪いので・・・)。
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2年前にぺんの古墳探訪記さんが訪れた頃にはまだ墳丘が確認出来たそうですが、藪が透けて反対側が見えてました・・・。

しかも道路脇から墳丘址の中心を道路の高さで南北に庭石(?)が並べて積まれてます。石の加工具合を見ると古墳の石材ではない様に見えました。
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50m程戻って南に300m弱進むと鬼塚古墳、或いは帯刀2号墳とも呼ばれる上里町82号墳が右手に見えて来ます。
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横を抜けて南東より見てます。未調査の直径27.5m、高さ約2.5mの円墳で群中2番目に大きい規模です。
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墳頂の様子です。見えるのは拳ほどの大きさも無い小粒の石ばかりです。
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そこから西北西に約170m離れたマウンドです。帯刀〇号墳の順番だと6号墳との間に在り5号墳に当たると思えるのですが、何らかの理由で古墳とは確認されてないとして県や町の遺跡分布図・番号からは外されてます。
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南東より見てますが直径約10m、高さ1m強のマウンドは遠くからでも目立ちます。

古い航空写真でも写っていて鬼塚古墳よりも大きい川原石も多く見えますが、群で葺石が確実な墳丘があまり無い事からすると判断には困ります。
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ちなみに墳頂には石碑ではなく個人のお墓が建ってます。

また北側のビニールハウスから南へ排水する塩ビパイプの上に在るのも怪しい(いつもと逆の意味で)感じがします。
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一応確認でお聞きしたのですが、やはり未調査で公式に新たに古墳に加える訳にも行かず、他にも怪しい場所が分布域内に幾つか在ってその中のチェックポイントの一つではあるそうです。
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そこから西北西およそ75mに在って帯刀6号墳とも呼ばれる上里町84号墳を南より見てます。
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竹藪になっていて、周りに余剰土が盛られてたりしますが・・・

南東より竹藪の下を覗くとこちらは直径約8m、高さ約1mのマウンドが確認出来ました。
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続きます。

桜川市塚本古墳 不明古墳?

遠越古墳から小栗街道を東に500m弱進むと右手に太陽光パネル越しに円墳が見えて来ます。これが塚本古墳です。グーグルマップのストリートビューでは資材置き場の空き地(?)に在る竹藪古墳といった印象なのですが、行ってみるとすっかり様変わりしていました。
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もう西隣の民家の庭山といった雰囲気なのですが、お留守だったらしく進入路と発電所の間のスペースから見学させて頂きました。

北東の角より見上げています。直径約18m・高さ約4m程の円墳だと思いますが、現状は一辺約15mの角が丸くなった方墳状の墳形です。
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太陽光パネル設置の際に調査が行われてる可能性も有るのですが、報告書等は見つけていません。

墳頂の様子です。下から見ても目立つ巨岩でしたが、伐採した竹を押し倒して置かれている様子だと庭石を重機で上げたのではないでしょうか・・・?
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右側の石の真っ直ぐ奥、白い看板の建物の先が山ノ入古墳群の跡で、その右手の私有地内には内山古墳という円墳がポイントされてますが現存しているのかも確認出来ませんでした。

ちょっと気になるのが塚本古墳から300m程西に戻った道路脇に本郷不動尊が在りその裏側(西隣)に南向きの石祠を頂部に祀った直径約15m、高さ約2mのマウンドが在ります。
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グーグルの車もここだけ許可が得られなかったのかずっと南に迂回してるので、もしかしたら地権者の方の意向で遺跡として確認・登録されてないのかもしれませんが、見た目は円墳です。

前橋市愛宕山古墳現地説明会

総社古墳群では国の史跡に指定されている総社二子山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳以外の墳丘の遺産価値を高めるべく調査が行われていて、遠見山古墳に続いて愛宕山古墳が倍の4ヵ年計画で調査中です。以前墳形を確認する調査が行われて円墳と思われてたのが実は方墳だったと判明してます。墳丘は市で所有する北と西側、お寺が所有する墳頂、個人で所有される石室付近と権利が分かれていて、今回前半は一部墳頂も含めた墳丘北面・西面の調査が行われてます。

調査期間の折り返しであるこの時期、コロナ禍で緊急事態宣言も延長される中ですが、感染防止対策を踏まえ少人数で2日間4回に分けて現地説明会が行われました。初日は地元の方向けで、2日目は古墳に関心の高い人が集まったそうです。自分も車で直行直帰で参加させて頂きました。

トレンチは2本墳頂から周溝まで設定されて、これは市立第六中学校側の西トレンチです。
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従来二段築成と考えられてましたが今回の発掘で三段築盛であった事が判りました。

こちらは北トレンチで、駐車場になってるので周溝の端までトレンチが延ばされてます。
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30数年ぶりに篠が刈られ、三段築成の墳丘が露わになってます。

浅くて広い周溝は幅約18m、深さ現状約1.5mで、もう若干深い可能性が有ります。
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手前の周溝からの立ち上がりが低くなってますが、これは後世に地面を削られた為で、築造時の旧表土はほぼほぼ現在の地表と変わらなかったそうです。

見かけ上周囲を石垣で固められた二段築成と考えられてましたが、これはその上段に見えていた部分の現在表面に見える葺石です。
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篠が密集して上がるのも困難だった墳頂もトレンチ設定に伴い一辺約10m程の平坦面もスッキリしました。
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開始時間までに当日参加の方を含めて50名ほどの人数となり、市教育委員会文化財保護課田中課長の挨拶の後2班に分かれての解説となりました。
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周溝では群馬県立歴史博物館の右島和夫特別館長が解説して下さいました。
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黒い土層に挟まれて1108年の浅間山天仁噴火のB降下軽石層が確認され、ちょっと擦ると・・・
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この様にサラサラの火山灰状になります。
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墳丘の葺石については前回に引き続き発掘担当の小川氏が解説して下さいました。またもトレンチ内の氏を見下ろしてます。氏と立ち上がり面の間に石列が見えます。
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場所は北トレンチの1段目のテラス面で、大小の川原石で水平面を出しているのが見て取れます。石室とは反対面の地上から見えない部分なのに丁寧な施工がなされており、すぐ北西で先の首長が眠る二子山古墳を意識している可能性が考えられてます。

説明は北トレンチでしたが、陽当たりの良かった西トレンチで各段を紹介します。これは1段目の葺石です。
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この基部と周溝の立ち上がりを調べて旧表土の高さが割り出されてます。

広いテラス面を持ちその上の2段目です。崩れて流れたにせよ、ラインの上に多くの川原石が見て取れます。
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現在は崩れた天井石の隙間で石室が開口しているのでちょっと高さが低く感じられますが、このテラス面が石室床面のレベルです。

一番上の3段目です。このテラス面が石室の天井レベルになります。北トレンチではこの立ち上がり面肩部に大きい木が生えていたので、その根で少し壊されてます。
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裾部周囲を固める石垣は1段目の葺石よりもやや外側で、内側から近代の遺物が見つかってる事から明治以降に施されたものと考えられてます。
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その断面からすると明治以降だけでも地面が大分上がっていた事が見て取れます。

北側トレンチではテラス面の一部が深く掘り下げられ、墳丘の土層の表示もされてました。
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先ほどの立ち上がり面から離れたテラス面の石列からは、今見えてる葺石面の途中まで後から造られた段があって5段に見えていた可能性も有ります。
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もしくは上のテラス面のエッジまで直線状に葺かれていた可能性も考えられます。その場合は今見えてる立ち上がり面は葺石ではなく墳丘内石列になるのでしょうか・・・、これは狭いトレンチではなくもっと広く調査しないと判りませんね。
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実際今見えてる立ち上がり面は約40度の勾配で、約25度だった遠見山古墳よりも大分急な角度です。

こういった考えが出来る最大の理由は、2本のトレンチとも葺石面がほぼ綺麗に残ってるのにこれだけの量の川原石が段築のラインの上から出てるからです。
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これらの川原石は現在よりも遠い利根川旧流路(現在の広瀬川や桃ノ木川付近)からわざわざ運ばれた事はほぼ確実で、手間をかけて造られていた事が解ります。

愛宕山古墳は群中で前方後円墳が造られなくなった最初の方墳で、県内を見渡しても埴輪を立てなくなった同時期の大型方墳はここ1基のみである事からも重要性は高まってます。
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