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行田市埼玉古墳群(その3)

墳丘に上がれる2基に続いて、次は中に入れる将軍山古墳です。

公園の東端に在り、西から向かう途中には将軍山古墳展示館として看板が出ています。
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看板背後の駐車場内で無名の円墳が検出されてます。

中を見る前に道路から外れて北西より真横から見てます。墳長90m、高さ現状9.4mの南西向きの前方後円墳で、前方部の方が後円部よりも1m程高くなってますが正確な元の数値は不明とされてます。
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稲荷山古墳と同じ南西向きでも主軸線は富士山を向いておらず、前方部の軸線上遥か先には伊勢神宮が在ります。

北より見てます。内堀には降ったばかりの大雨で水が貯まって水濠となっています。
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埴輪が並べられていた事が判っており、墳丘整備の際にここだけレプリカ埴輪列で再現しています。

殆ど誰も訪れない西側外堤上に設置されてる解説パネルです。台形の周堤と周溝を持ち、やはり墳丘と中堤との西側2ヶ所に造出しが有ります。
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右手に見えるのが細いブリッジで、奥の一段高い場所が中堤の造出しです。
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くびれ部の造出しは削平されてましたが、発掘成果を元に綺麗に復元されています。
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墳丘は円筒埴輪数本おきに朝顔形円筒埴輪が並べられてますが、造出しにだけは靫形埴輪も並べられてます。
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墳丘南西側道路沿いに設置されてる他の墳丘と同形式の解説板です。
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墳丘東側半分程と、前方部南西部は削られて建物が並んでたため、後円部内に復元横穴式石室を展示する世にも珍しい墳丘内博物館として活用されました。
sakitamashogunyamairiguchi.jpg

館内に貼られている解説で、都合3種類の解説が各所でされてる事になります。
sakitamashogunyamaaramasi.jpg

横に馬の写真がくっついてますが、前方部の土層の剥ぎ取り展示です。
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入口正面にも石室に使われた房州石と土層がライトアップされてますが、こちらの暗い方が大きいです。

馬具など馬に関する出土が有るので、解説パネルで図示されてます。ここには描かれてませんが馬冑と言う日本で3例しか発見されてない馬の甲冑の一部が出土してます。
sakitamashogunyamaumanoyosooi.jpg

展示されてる発掘状況図にざっとですが着色して見ました。墳丘脇に現市道が出来て大きく削られてるのが分かります。
sakitamashogunyamajissokuzu.jpg
かろうじて主軸線付近が残り、後円部に横穴式石室、前方部に木棺直葬の主体部2ヶ所(赤い部分)が見つかりました。前方部の墓壙からは数は多いもののガラス玉ばかりが出土してます。

埋葬状況を再現した石室展示です。意義は感じますが、100%模型で墳丘の中にわざわざ造る意味があまり無い様に思えてしまいます。
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墳丘欠損部分に墳丘の形に合わせた展示室を建てて、模型とは別に補強した石室を窓越しでも見学出来た方が良かったかも。

副葬品配置図と石室についての解説です。
sakitamashogunyamasekisitukaisetu.jpg

続きます。
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非公開コメント

No title

こんにちは。
将軍山古墳は見学していますが、古墳の平面図を注意して見ていませんでした。築造後の墳形改変についてはよくわかりませんが、変わった形をしていますね。前方部の発達に対して後円部が小さい。南西にある二子山とも違います。高崎市にある石上部系と言われてる八幡観音山古墳も前方部が異常に発達した特異形で、畿内の白髪山古墳や東乗鞍古墳に似ています。将軍山も似ているように思えます。時代的な流行なのか、氏族依存文化なのか気になりますね。みな同族と考えれば、将軍山以外は定型的な墳形?ですから時代依存と見るべきなのかな?

No title

>形名様
自分はここの様に後円部に対して長大な前方部というと石岡市の舟塚山古墳や見瀬丸山古墳を思い浮かべますが、ほぼ同時期の後者は兎も角舟塚山古墳は1世紀前の推定です。
埼玉古墳群内で考えても同時期の墳丘も含めて全長の半分に全然届かない直径の後円部を持つのは将軍山古墳のみである事を考えると時期的な理由ではない気がします(前方部の幅が拡がるのは時代的なものと思いますが)。

ちょうど今企画展もやってたりして遺物が移動してたりしますが、まず国内のものではない出土品があったりするのは同族ではなく、中央から送られて来た渡来人系の有力者だったりと考えてしまうのはちょっと乱暴で短絡的な考証でしょうか・・・。
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Author:あんけん
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