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牛田古墳群発掘調査現地説明会(前編)

JR八高線群馬藤岡駅の南南東およそ4km、神流川に流れる尻無川が合流直前の右岸、神流川による段丘の下に分布する牛田古墳群が圃場整備事業で現存墳丘も削平される事になり発掘調査中で、日曜日に現地説明会が催されました。

調査区域を南より見てます。中央手前が3号墳でその奥は埋もれていた1号墳、右は2号墳で左は4号墳です。どれも南向きの横穴式石室が見えてます。画像左端のブルーシートの下にはもう1基埋没古墳の周溝が見つかってます。県の総覧では全基湮滅表記で4基記載されてますが、もう一ヶ所の古墳址と思われた場所は近世の積み石だったそうです。最終的には7基の円墳が確認されました。
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どれも埴輪を持たない7世紀の古墳時代終末期の築造と推定されてます。群も範囲内である川除屋敷裏遺跡の北端では奈良時代の廃寺が見つかり、画像右側の河川敷側では古墳群やその寺と時期を同じくする集落跡が見つかって調べただけでも205軒の竪穴住居跡が検出されました。

受付テントの設置されていた北東側より見てます。右端の1号墳は墳丘は削平されて現時点のグーグルマップのストリートビューで見える様に農地の段差になっていて今回発見されました。手前のコーンの辺りで後に7号墳の墳丘と石室が見つかってます。 YouTubeのtsulunosチャンネルで紹介されてます。
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周囲は全部畑だったとの説明に飛び入り参加された地元の方が水田だったのでは?と尋ねて否定されてましたが、稲刈りの跡が見えており、1・2号墳の間は畑の奥の水田だった様です。

藤岡市文化財保護課埋蔵文化財係井上係長の挨拶で説明会が始まりました。当日はコロナ対策で基本事前応募制で毎回25人程度で4回、合計100人程度の参加者を募集し遠くは静岡県などからもいらした方もいるそうです。
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実際の説明会は2→3→4→1号墳の順で見学したのですが、画像数の関係で逆に1号墳から紹介します。1号墳のみ斎藤氏による説明です。
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墳丘を南東より見てます。農耕のために石室部分で高さ1m程度しか残ってなかった直径17.8mの円墳です。この墳丘だけやや高い場所に築かれた規模の大きい墳丘で埋葬者の地位的なものが想定されます。
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説明で出た寸法以外は途中経過のメモに記載された数値をお聞きしたものであり、報告書で公表されるものとは異なる可能性も有りますので転載・引用はご遠慮下さい。

北東より見てます。画像手前の北東面は墳裾の下まで掘られてますが、周溝の発掘はまだまだこれからで2月頃まで調査が続く予定だそうです。
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高さは失われていたものの平面形状が良く残っていた全長約9mの横穴式石室を開口部より見てます。
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「ハ」の字に広がる形状が良く残ってる前庭です。左壁側は敷石を退けてその下も調査が入ってます。
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続いて羨道です。側壁の模様積みが残ってる部分が土嚢で護られてます。手前側には積まれてる棒状の川原石の形が見えます。
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模様積みは伊勢塚古墳でも見られますが、藤岡市から美里町辺りまでのエリアで見られる手の込んだ積み方で、今復元してもその後千年も崩れない様に積めるかどうかも怪しいロストテクノロジーではないかとの事でした。

両袖型の玄室です。早くに削平され一時期は上部が空いていて再利用されてたのか積み石などに改変が見られ、床の敷石も少なくなってます。
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下部も他の墳丘と若干積み方に違いが有るようにも見えますが推定築造時期としてはほとんど同じ時期で想定されてます。

奥壁側より見てます。玄門より奥壁側の方が幅の広い楔型の平面をしてます。右壁は押されてかなり傾いていて補強がされてます。
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往時は上端に見えるしきみ石の下端と同じレベルで敷石が施されていたハズです。

奥壁です。各墳丘で積み方の違いは有っても模様積みである中でここだけ乱石積みになってますが、これも一度壊した後で構成に積み直された可能性が有ります。
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左壁の奥壁から50cm程の上部に鉄の棒状の何かが出てます。しっかり刺さっていて簡単に抜けないそうです。
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模様積みは結晶片岩の棒状の川原石を積んでその間に小口が大きくなる石を入れて柄を造ってるのですが上の玄室の画像を見ても分る様に現状残ってる上部の石は右壁側と異なり丸いか短い石ばかりで、この鉄製品も含め後世の積み替えによるモノかもしれません。

墳丘北北東側のトレンチです。土層が解り易い様に白線が入れられてますが説明では触れられませんでました。
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南東側の葺石の根石部分を見てます。この墳丘だけ規模が大きく農耕の邪魔だったのは間違い無いでしょうし、この上面の様に主体部以外の大きな面積を削ったら段差地形の端っこに残った主体部も崩して埋めてしまえとなったのでしょうか・・・。
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斎藤氏が周溝に下りて説明されてます。1108年の浅間山天仁大規模噴火による火山灰が堆積する中に崩れた葺石が混入しておりその頃には墳丘の破壊がもう始まっていたと想定されてます。
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1号墳の南に15m程離れてる4号墳を南東より見てます。破壊と撹乱が激しく、墳形・規模は不明ですが一応円墳と推定されてます。
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トレンチ内を見ても明瞭な墳裾は検出されてません。

2~4号墳は文挟氏が説明してくれました。
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石室を開口部付近より見てます。両袖型と思いますが左壁側が土に押されて変形して歪んでおり袖が見えません。羨道だけ床の敷石が良く残ってます。
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大分狭くなって見えますが玄室はL2m×W1.2m程の広さだそうです。

右壁の模様積みと玄門を見てます。2号墳の次に残りが良さそうに見えますが、安定してなく危険なので一旦発掘を止めてるそうです。
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奥壁です。ここは根石にバスケットボール大の石を並べ低い模様積みの上に緑泥石の大きな鏡石を据えています。
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奥壁裏込め石の北側の断面を見てます。主体部ギリギリまで削られた上に1783年の浅間山天明の大噴火の火山灰が積もってました。盛土と火山灰の違いが良く見えます。
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ただここは浅間山から距離が離れていて火山灰は積もり過ぎであり、江戸時代の住民が邪魔な火山灰を残丘に寄せて積んだものが一体化したものと考えられてます。

墳丘の横に天井石の破片が纏めて置かれてました。人の肩幅程の長さの棒状の緑泥石片岩で壁に使われてる川原石とは異なります。
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発掘途中の写真だと玄門付近にも落ち込んでいたのが写ってました。

続きます。
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